2021年9月 7日 (火)

9月18日(土)高円寺稲生座

「極楽ももう午に近くなったのでございましょう」
とくに意味はございません。HURDYGURDY、石川紀子のライブでございます。

9月18日(土)高円寺稲生座
出演:HURDYGURDY、石川紀子(朗読)
open 17:20 start 18:00 close20:00
chage ¥1,650(+Drink)

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2006年3月 3日 (金)

多摩美オールナイトロックフェス・5

83年以降も3年間、私はロックフェスにかかわった。しかし、委員長という立場を退いてしまった後はポスター、チラシ、チケットの制作をしたり、アドバイザーなどという偉そうな立場に追いやられてしまい、つまり裏方の裏方にまわったため、最前線でひどい目に遭うことがなくなった。反面、面白味も半減し、あえてここに書いておきたいこともさほどあるわけでもなく、ということで、5回にわたった「多摩美オールナイトロックフェス」の締めとして、「総論」などぶってみたいと思う。   日本のロックの創生期にあたる70年代中期、全国各地の学園祭で試みられたロックフェスのひとつとして多摩美オールナイトロックフェスも誕生した。わずかに残る資料と伝承でわかる当時の出演アーティストが「カルメン・マキ&OZ」や「裸のラリーズ」などだったことから、その時代がはかれるのではないかと思う。そして、多摩美が他のフェスと違っていたのはその後20数年間に渡って継続されたということだろう。時代が80年代に入ってパンク・ニューウェーブに変わっても、それに沿いながら多摩美らしさを失わず、さらに90年代初頭のテレビ番組「イカ天」ブームの影響を受けながらも初期の頃と変わらないオールナイトコンサートが維持された。まったくマスコミに評価されることはなかったが、関わった者として手前味噌と知りながら、これは「快挙」と言って良いと思う。しかし、その多摩美オールナイトロックフェスも90年代末、その幕を閉じた。後継のひとりから聞いた話では、「学生の側からのロックに対する要求が消えた」ということだった。単刀直入に言えば客が入らなくなったらしい。そして最近、ロックフェスが再開したとか話は聞かないし、ネットで調べても、過去の記録がいくつか出てくるだけだった。ロック自体が時代の最先端を切る音楽ではなくなってしまったこともあるだろう。  こうして眺めてみると、このロックフェスの歴史の中で私が関わった時代を考えるに、とくに厳しい頃ではなかったかと思うことがある。当時、ロックとパンクは水と油で反目しあっていた。コンサート中、ロック系バンドからパンク系バンドに変わると会場の客がほとんど入れ替わってしまうことが何度もあった。小とはいえウッドストックの再現を願った私としては頭をかかえる現象だった。時代のせいにしてしまえばそれまでだが、やはり後悔が残る。採算を二の次にしてでも自分の納得のいくラインナップでロックフェスを企画するべきだった。時代錯誤といわれようと、職権乱用と批判されようと、膨大な赤字を出そうと、それでも「あの時代に、自分はこれをやった」というようなコンサートを実現するべきだった。 こんな思いがあったため、20年間もあのロックフェスと向き合うこともなく、ほったらかしにしてきたのかもしれない。ブログなどという場所を持った機会に、ちょっと思い出してみようと、こんなものを書いてみた。また、ロック再興の兆しを感じる今日この頃、次の時代に期待する思いも込めて。

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2006年3月 2日 (木)

多摩美オールナイトロックフェス・4

前回に続いて、私が委員長を勤めた82年の出来事をもうひとつ書いておこうと思う。この年のロックフェスの最初に出演したバンドは「ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ」。読んで名前のごとくコミックバンドである。どんなバンドだったかというと、最近のものを例にすれば、「モダンチョキチョキズ」をもっと渋くソウルフルにした感じで、当時そこそこ名前も知られていた。それが学園祭も間近に迫った頃、あることで委員会に問い合わせをしてきた。その問い合わせというのは「火を吹いてもよいか?」ということだった。彼らのステージはかなりハチャメチャで、なかでも呼びものだったのがベーシストがキッスのジーン・シモンズのように口にアルコールを含み、火を吹き上げるというパフォーマンスだった。私はとくに考えることもなくOKを出すつもりだったが、軽音の先輩の一人がちょっと過剰に反応して「やめさせた方がいい」と言い出した。理由は火災の危険と、もうひとつは警備(体育会系)との緊張関係だった。学園祭の間、体育会系の各部は数名づつ部員を出して警備にあたらせるのが慣例になっていて、それは学園祭の運営には大きな役割を果たし、特にロックフェスは警備への依存の高いイベントだった。彼らを刺激するようなことは避けた方がいいとその先輩は言い、結局押し切られるような形で「火吹き」はやめてもらうことになった。私としては自分が責任を負うロックフェスから面白そうなことがひとつ減るのは心外であったし、聞けば「おとぼけキャッツ」は多摩美を最後に解散するということだった。それならなおさらやってもらうべきだったが、すでに遅く、事務所に連絡した後だった。また、私は委員長としてなにかと多忙で、そればかり考えているわけにもいかずそのままになり、いつしか忘れてしまった。そして、ロックフェス当日、例のシーナの一件で緊張の走る開場数時間前、私は会場の最終確認をしていた。すると、そこにむさい姿の一団がやってきた。そのナリから彼らがミュージシャンでありステージの下見に来たことはすぐにわかったので、私は彼らのところへ行き、「責任者です。今日はよろしくお願いします」と挨拶をした。そして中の一番目立つ人物が「ダディ竹千代です。こちらこそ」と答えたとき、しばらく忘れていた「火吹き」の一件を思い出した。私がそのことをまず詫びようと思ったが、その間もなく、その中の一人の男が申し訳なさそうに言った。「ベースのものですが、火は、ダメですかね?」まだ諦めきれないのだろう、その言葉を聞いて、私は返事に困った。そして、ベース氏は察して「ダメですよね」と、諦め笑いを顔に浮かべた。その時、私は思った。責任者たる者、相手にはっきり伝えるべきは伝えなくてはならないと。私はベース氏に向かってキッパリと言った。「残念ですが、火を吹くのはやめてください! ・・・・・、バケツ、用意しときますから」。一同の動きが止まった。私は繰り返して、「ですから、火は絶対に吹かないで下さい。バケツ、用意しときますから」。一瞬おいて、ベース氏の顔に笑顔が浮かんだ。「わかりました。火は吹きません。ですから、バケツ用意しておいてください」「ご理解ありがとうございます。バケツは用意しておきますので、くれぐれも火の方はおやめください」「もちろんです。バケツさえ用意してくだされば、火は絶対吹きません」その後、メンバー全員笑いながら控え室に戻っていった。そして、夜九時、彼らのステージでロックフェスの幕があがった。客をのせるのは得意と見えて、会場は一気に盛り上がった。話に聞いたステージングはめちゃくちゃでステージ上で焼きソバを焼き始め、できたらそれを会場にぶちまけた。私はその間にスタッフに頼んで、でかいバケツに3杯水を入れて持ってこさせ、そしてついにその時が来た。ベース氏はなにやら口にふくむと、おもむろに手に松明を持ち顔の前にかかげ、それにむかって一気に吹きかけた。次の一瞬、大きな火柱が立つと会場がパッと明るくなり、客たちは大喜びでそれに反応した。間違いなくこの夜の流れをつかんだ一瞬だった。そのあとも特に問題なく、彼らは最後のライブを終え、ステージを降りていった。   さて、あれから20年の時が過ぎ、今思い返すに、万が一あの時、なにか事故が起きていたとしたら、自分はどう責任を取るつもりだったのだろうか。カッコつけるわけではないが、責任を取る覚悟があったのは偽らざるところだった。しかし、具体的にどう取るかについては正直、なにも考えていなかった。若者らしいといえば若者らしいが、バカ者といえばバカ者だった。しかし、そうであれどうであれ、私は今でもあの時の自分を嫌いにはなれない。

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2006年3月 1日 (水)

多摩美オールナイトロックフェス・3

82年度が始まると私はすぐにロックフェス委員会を組織し始めた。主要なスタッフ構成は前年と同じ、委員長、副委員長、会計の3人だけだったが、軽音の部員に対してロックフェスでの担当部所の割り振り、学園祭実行委員会や体連警備との連携など早いうちから整えていった。出演ミュージシャンも夏前にはおおむね決まり、メインは上田正樹。私は関西のブルース系バンドが好きで、元サウス トゥ サウスのボーカルの出演決定に大喜びした。もうひとつは2年ぶりのシーナアンドロケッツ。その他、6バンド。時代的には当時、パンク・ニューウェーブが主流でその手のバンドもいくらか呼んだが、委員長を引き受けた者の特権とばかりに、時代錯誤と一部から批判されながらもこれを押し通した。そして、前年の二の舞は踏むまいと運営に努力した甲斐あって、準備は着々と進んだ。ところがステージも組み上がり、翌日の本番を待つだけとなった時、予期せぬ一報が届いた。それはなんと、シーナ妊娠! 安定期に入る前なのでシーナ抜きの出演にさせてほしいとの事務所からの連絡だった。「かんべんしてよ」と、私は頭をかかえた。すでに前売りは500枚以上売ってしまっていた。呼びもののバンドのボーカルが来ないとあっては、客がどういう反応をするかわからなかった。すぐに事態を明らかにすればチケットの割引、あるいは払い戻しの要求がおこるかも知れない。当日まで伏せた場合、開場の混乱、最悪は暴動も考えられた。もう一度事務所に問い合わせたが、ことがことなだけに無理を押して出てほしいともいえず、結局、残された選択はどこで事実を発表するかという私の決断だけだった。もうじたばたしても仕方ないと、当日、掲示版で告知することに決め、それまでは事は伏せるようにスタッフに言い渡した。ところが、一報の電話を受けた学園祭実行委員会あたりから情報が漏れ、噂は一気に広がり、学園祭の準備にわく学内はその話でもちきりになった。しかし、それが効を奏したのか、翌日には誰もが知る事実となり、混乱の気配は薄らいでいた。一応、委員会からの正式な発表は当日の昼前、掲示板で行ったが、それをわざわざ見に来るものは少なかった。 そして、コンサートが始まると私はバックステージにつめた。責任者はコンサートの様子を把握し、また所在が分かるように動いてはならない。また、この年は司会もした。夜8時、まず学内バンドからコンサートは始まり、当日券での入場者も順調に増え、客の入りはまずまず。9時頃からいよいよプロのバンドの出番になり、その後、コンサートは予定通りに進んでいき、3バンド目に上田正樹バンドが出て、翌年にヒットすることになる「悲しい色やね」を歌った。そして夜半、シーナ抜きの「ロケッツ」の出番。客は会場にめいっぱいに入り、反応によっては、暴動を治めるのに心理的効果のある「会場の全照明点灯」の準備もしていた。しかし、鮎川誠がステージに上がると会場から「おめでとう」の声があがった。普段の自分なら「くすぐったい奴らだ」と、ハスにかまえるところだが、少なくとも最悪の事態はこれで免れたという安堵感でさすがにホッとした。そして「ロケッツ」は、鮎川誠のボーカルでオリジナル曲よりロックンロールのスタンダードを多くカバーし、最後の方で「サティスファクション」を歌った時、会場はこの夜最高の盛り上がりを見せた。災い転じてなんとやら。今思えば、予期しなかったロックンロールショーに一番満足していたのは当の私だったかも知れない。

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2006年2月28日 (火)

多摩美オールナイトロックフェス・2

81年、多摩美の学生となった私はあれよという間にロックフェス副委員長という肩書きをつけられてしまった。学生運動が沈静化した後の「シラケた時代」といわれるようになって久しい当時、ちょっとでも「やる気」などみせようものなら、希少な人材とばかりにこの始末であった。まぁ、前年のロックフェスを観ていたので、バックステージ側から観るのも面白そうと思い、不服はなかったが。しかし、しばらく様子をみていると、この「委員会」というのが、あるんだかないんだかわからないような組織で、なんだか心配になってきた。ロックフェスは学園祭実行委員会ではなく、軽音部の中のロックフェス委員会が運営することになっていて、委員長は部内から選出された。その他には、会計と副委員長の私。それだけだった。実際にイベントが動き出せば、部や実行委員会から人手が出るからなんとかなるということだったが、どうも頼りなく思えてしかたなかった。夏前の3回程度の会議で出演バンドは決まり、夏休みが終わるとあっという間に学祭期間になった。そして、体育館の床にシートが貼られ、ステージが組み上がってゆくと、なるほど心配したことはないと、その時は思った。ところが当日、いよいよ開場時間が近づいた頃から雲行きが怪しくなってきた。「駐車場でトラブル発生!」の声。 駆けつけてみると、予定時間より早く到着したバンドの車と警備(体育会系運営)がもめていた。スペースに限りのある駐車場のやりくりのため、警備からは「時間厳守」が要求されていた。バンド側としては「遅刻しているわけじゃないし、なにが悪い!」というところ。これを治めるのに一苦労。すると今度は「出演者控え室で問題発生!」、そっちへ走る。行ってみると女性出演者の着替え場所がないとのこと。すぐに学園祭実行委員会本部に行って隣の教室の使用許可をもらう。当然、「今頃、なにやってんだ!」と怒られた。はたまた、今度は警備本部長から「呼び出し!」 ロックフェス委員長はバックステージから離れられないため、私が行かなくてはならなかった。駐車場がパニック状態ということでめちゃめちゃ怒られた。すっごいコワそうな警備本部長に「なんとかお願いします」と、頼み込んでその場を治めるのに時間のかかったこと。そしてその頃、すでに開演。最初のバンドの音が聴こえ始めた。そして、まずいことに小雨が降り始め、私は雨の中、あっちこっちで起きるトラブルの収拾に走り回った。いつの間にか、あらゆるトラブル情報は私のもとに届けられるようになり、すべて私の責任で判断しなければならなかった。バックステージからコンサートとを観るなんてヒマはどこにもなく、びしょ濡れになった服が、走り回るうちに一度完全に乾き、そしてまた、びしょ濡れた。やっとバックステージに戻ることができたのは、夜半すぎ、メインのバンドになるころだった。これで一息つけると思ったのだが、突然、一人の黒づくめのパンクスがいきなり私の胸ぐらをつかんだ。「おめぇか、ここの責任者は?!」胸のスタッフバッチを見て判断したのだろう。私がどうすることもできずにいると、横からマネージャーらしき男が止めに入った。パンクスは私を乱暴につき離すと、「だからこんなとこ来たくなかったんだ!」と、吐き捨ててそこを去った。段取りの悪さに腹を立てたのだろうが、ぶつけるところのない私は自分のやっていることがばかばかしくなり、情けなった。しかし、また別のところでトラブルが発生したと知らせがあり、私はまた走った。雨のぬかるみを走り走り回って午前3時。あと2バンドを残すだけとなったころには、それでも事態はだいぶ落ちついたようだった。各部所を確認して回ると、どうやらどこも困難な事態は切り抜けたらしく、「もう、大丈夫だから」と、担当者達からバックステージに戻ることをすすめられた。戻ってみると、コンサートもなんとか無事進行しているようだった。そして、そこにさっきのパンクスがいた。私を見つけると、今度はうってかわって礼儀正しく「さっきは悪かった」と謝った。どうやら控え室の担当者が私の立場を彼に話してくれたらしかった。「君が頑張ってんだってな。今から出番だ、俺らを観ててくれよな」と言って、ステージにあがった。私は壁にもたれてしゃがみ込み、演奏を始めた彼らの後ろ姿をしばらく観ていたが、しだいに重い眠気に襲われ、そのまま頭を膝にうずめた。眠りへと意識が薄れながら「来年は僕がやる!」と思った。

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2006年2月27日 (月)

多摩美オールナイトロックフェス・1

70年代中頃から90年代末にかけての約20年間、 多摩美術大学の学祭にオールナイトロックフェスというイベントがあった。 毎年、11月2日の夜に始まり、翌3日(休日)の明け方まで、 7、8バンドが出演しておこなわれたコンサートは、 管理されないロック空間の出現する数少ないフェスティバルとして、客からだけでなく、 出演ミュージシャンからも支持されていた。 この当時、学園祭のロックフェスといえば法政大学が知られていたが、 これは昼間のイベントで都内ではオールナイトは多摩美だけだった。 全国でみれば関西にピン大オールナイト(桃山大学、ピンク大学の略)があり、 西のピン大、東の多摩美、といわれ両雄を競うような感じもあった。 多摩美でなぜオールナイトロックフェスが可能だったかというと、 理由は簡単。キャンパスが八王子の山の中にあり、隣接する民家がなかったからだ。 会場の学内体育館はもちろん防音などされていないから音はおもいっきり外に溢れ出していたが、 イベントが中止に追い込まれるような苦情が来たことはない。 しかし、その体育館だが、私学で学生数の少ない美術系大学とあってあまり大きな建物ではなく、 広さは公立の小中学校によくある体育館の2分の1程度。 式典用の舞台もないので建築用の資材を借りてきてステージを作ったが、 ステージ本体とバックステージで体育館の面積の3分の1を使ってしまい、 客を入れるスペースはおせじにも広いとはいえず、 1500人程度入ればいっぱいだった。 校庭で野外コンサートにすれば客はもっと入ったかもしれないが、 この季節の夜間、八王子の山の上の冷え込みは強く、 天候が悪ければイベントの失敗は避けられない。学祭イベントという性格上、 最悪でも赤字を出さなければよいので、小さくてもやはり会場には体育館が使われた。 そしてチケットも1500円から2000円程度で通した。 それはだいぶ昔のこととはいっても、出演バンドの質、 数からすると、やはり格安感があった。 営利が目的ではないという信念がそれとなく受け継がれたような、 あるいは慣例を見直すこともなくそのまま続けたような結果だったと思う。 しかし、やはり運営、継続にはそれ相応の苦心があった。 ミュージシャン側の好意で出演料は通常の半額程度にしてもらっていたが、 それでも有名バンドを呼ぶには予算が足りなかった。 メインになるバンドにインパクトがなければ客は入らない。 そこでとられた方法というのがちょっとした賭ではあるが、 夏前にこれからのびそうなバンドと早めに契約してしまうこと。 もちろん、はずれてしまえばそれまでだが、少なくとも出演料は安くすむ。 それでもそこそこなんとかなり、そんな思惑が最も当たったのが1980年の 「RCサクセション」だった。この年、例によって早めに「RC」と契約した頃は、 まださほど売れてはいなかったが、夏あたりから「雨上がりの夜空に」がヒットし始め、 学祭の季節になる頃にはおもいっきり火がついて、前売りは飛ぶように売れたという。 この年は「子供ばんど」、「シーナアンドロケッツ」などが出演し、夜半、 「RC」の出番になるころには会場は約3000人の客ですし詰めになっていた。 ちんけな体育館をまさに揺らしながらのライブになったが、 今から考えるとよく床が抜けなかったと思う。そして、 客の荒くれ様に気をよくして、アンコールに答えた忌野清志郎が 「昼間行った他の学祭はショボかった! けど、ここはロックだっぜっ!」と叫んで、 「上を向いて歩こう」を歌った。私はこの時、まだ浪人生で、翌年この学校の学生になり、 このイベントにどっぷりかかわることになるとも知らず、夜どおし狂っていた。

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