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2006年2月28日 (火)

多摩美オールナイトロックフェス・2

81年、多摩美の学生となった私はあれよという間にロックフェス副委員長という肩書きをつけられてしまった。学生運動が沈静化した後の「シラケた時代」といわれるようになって久しい当時、ちょっとでも「やる気」などみせようものなら、希少な人材とばかりにこの始末であった。まぁ、前年のロックフェスを観ていたので、バックステージ側から観るのも面白そうと思い、不服はなかったが。しかし、しばらく様子をみていると、この「委員会」というのが、あるんだかないんだかわからないような組織で、なんだか心配になってきた。ロックフェスは学園祭実行委員会ではなく、軽音部の中のロックフェス委員会が運営することになっていて、委員長は部内から選出された。その他には、会計と副委員長の私。それだけだった。実際にイベントが動き出せば、部や実行委員会から人手が出るからなんとかなるということだったが、どうも頼りなく思えてしかたなかった。夏前の3回程度の会議で出演バンドは決まり、夏休みが終わるとあっという間に学祭期間になった。そして、体育館の床にシートが貼られ、ステージが組み上がってゆくと、なるほど心配したことはないと、その時は思った。ところが当日、いよいよ開場時間が近づいた頃から雲行きが怪しくなってきた。「駐車場でトラブル発生!」の声。 駆けつけてみると、予定時間より早く到着したバンドの車と警備(体育会系運営)がもめていた。スペースに限りのある駐車場のやりくりのため、警備からは「時間厳守」が要求されていた。バンド側としては「遅刻しているわけじゃないし、なにが悪い!」というところ。これを治めるのに一苦労。すると今度は「出演者控え室で問題発生!」、そっちへ走る。行ってみると女性出演者の着替え場所がないとのこと。すぐに学園祭実行委員会本部に行って隣の教室の使用許可をもらう。当然、「今頃、なにやってんだ!」と怒られた。はたまた、今度は警備本部長から「呼び出し!」 ロックフェス委員長はバックステージから離れられないため、私が行かなくてはならなかった。駐車場がパニック状態ということでめちゃめちゃ怒られた。すっごいコワそうな警備本部長に「なんとかお願いします」と、頼み込んでその場を治めるのに時間のかかったこと。そしてその頃、すでに開演。最初のバンドの音が聴こえ始めた。そして、まずいことに小雨が降り始め、私は雨の中、あっちこっちで起きるトラブルの収拾に走り回った。いつの間にか、あらゆるトラブル情報は私のもとに届けられるようになり、すべて私の責任で判断しなければならなかった。バックステージからコンサートとを観るなんてヒマはどこにもなく、びしょ濡れになった服が、走り回るうちに一度完全に乾き、そしてまた、びしょ濡れた。やっとバックステージに戻ることができたのは、夜半すぎ、メインのバンドになるころだった。これで一息つけると思ったのだが、突然、一人の黒づくめのパンクスがいきなり私の胸ぐらをつかんだ。「おめぇか、ここの責任者は?!」胸のスタッフバッチを見て判断したのだろう。私がどうすることもできずにいると、横からマネージャーらしき男が止めに入った。パンクスは私を乱暴につき離すと、「だからこんなとこ来たくなかったんだ!」と、吐き捨ててそこを去った。段取りの悪さに腹を立てたのだろうが、ぶつけるところのない私は自分のやっていることがばかばかしくなり、情けなった。しかし、また別のところでトラブルが発生したと知らせがあり、私はまた走った。雨のぬかるみを走り走り回って午前3時。あと2バンドを残すだけとなったころには、それでも事態はだいぶ落ちついたようだった。各部所を確認して回ると、どうやらどこも困難な事態は切り抜けたらしく、「もう、大丈夫だから」と、担当者達からバックステージに戻ることをすすめられた。戻ってみると、コンサートもなんとか無事進行しているようだった。そして、そこにさっきのパンクスがいた。私を見つけると、今度はうってかわって礼儀正しく「さっきは悪かった」と謝った。どうやら控え室の担当者が私の立場を彼に話してくれたらしかった。「君が頑張ってんだってな。今から出番だ、俺らを観ててくれよな」と言って、ステージにあがった。私は壁にもたれてしゃがみ込み、演奏を始めた彼らの後ろ姿をしばらく観ていたが、しだいに重い眠気に襲われ、そのまま頭を膝にうずめた。眠りへと意識が薄れながら「来年は僕がやる!」と思った。

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2006年2月27日 (月)

多摩美オールナイトロックフェス・1

70年代中頃から90年代末にかけての約20年間、 多摩美術大学の学祭にオールナイトロックフェスというイベントがあった。 毎年、11月2日の夜に始まり、翌3日(休日)の明け方まで、 7、8バンドが出演しておこなわれたコンサートは、 管理されないロック空間の出現する数少ないフェスティバルとして、客からだけでなく、 出演ミュージシャンからも支持されていた。 この当時、学園祭のロックフェスといえば法政大学が知られていたが、 これは昼間のイベントで都内ではオールナイトは多摩美だけだった。 全国でみれば関西にピン大オールナイト(桃山大学、ピンク大学の略)があり、 西のピン大、東の多摩美、といわれ両雄を競うような感じもあった。 多摩美でなぜオールナイトロックフェスが可能だったかというと、 理由は簡単。キャンパスが八王子の山の中にあり、隣接する民家がなかったからだ。 会場の学内体育館はもちろん防音などされていないから音はおもいっきり外に溢れ出していたが、 イベントが中止に追い込まれるような苦情が来たことはない。 しかし、その体育館だが、私学で学生数の少ない美術系大学とあってあまり大きな建物ではなく、 広さは公立の小中学校によくある体育館の2分の1程度。 式典用の舞台もないので建築用の資材を借りてきてステージを作ったが、 ステージ本体とバックステージで体育館の面積の3分の1を使ってしまい、 客を入れるスペースはおせじにも広いとはいえず、 1500人程度入ればいっぱいだった。 校庭で野外コンサートにすれば客はもっと入ったかもしれないが、 この季節の夜間、八王子の山の上の冷え込みは強く、 天候が悪ければイベントの失敗は避けられない。学祭イベントという性格上、 最悪でも赤字を出さなければよいので、小さくてもやはり会場には体育館が使われた。 そしてチケットも1500円から2000円程度で通した。 それはだいぶ昔のこととはいっても、出演バンドの質、 数からすると、やはり格安感があった。 営利が目的ではないという信念がそれとなく受け継がれたような、 あるいは慣例を見直すこともなくそのまま続けたような結果だったと思う。 しかし、やはり運営、継続にはそれ相応の苦心があった。 ミュージシャン側の好意で出演料は通常の半額程度にしてもらっていたが、 それでも有名バンドを呼ぶには予算が足りなかった。 メインになるバンドにインパクトがなければ客は入らない。 そこでとられた方法というのがちょっとした賭ではあるが、 夏前にこれからのびそうなバンドと早めに契約してしまうこと。 もちろん、はずれてしまえばそれまでだが、少なくとも出演料は安くすむ。 それでもそこそこなんとかなり、そんな思惑が最も当たったのが1980年の 「RCサクセション」だった。この年、例によって早めに「RC」と契約した頃は、 まださほど売れてはいなかったが、夏あたりから「雨上がりの夜空に」がヒットし始め、 学祭の季節になる頃にはおもいっきり火がついて、前売りは飛ぶように売れたという。 この年は「子供ばんど」、「シーナアンドロケッツ」などが出演し、夜半、 「RC」の出番になるころには会場は約3000人の客ですし詰めになっていた。 ちんけな体育館をまさに揺らしながらのライブになったが、 今から考えるとよく床が抜けなかったと思う。そして、 客の荒くれ様に気をよくして、アンコールに答えた忌野清志郎が 「昼間行った他の学祭はショボかった! けど、ここはロックだっぜっ!」と叫んで、 「上を向いて歩こう」を歌った。私はこの時、まだ浪人生で、翌年この学校の学生になり、 このイベントにどっぷりかかわることになるとも知らず、夜どおし狂っていた。

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