小説・レインボーエキスプレス 9章「扉、澄む」-3
その日のうちに、レインボー・エキスプレスはこの旅最後の国境越えを果たした。
国境の町「スノウリ」は、インド側に比べてネパール側の規模は小さかった。長距離バスやトラックが発着する広場を中心に十数軒の宿屋があるだけで、一歩町の外に出ると、畑や野原が広がっていた。一行がネパール側にある小さなゲストハウスに落ち着いたのは、すっかり陽が暮れてからのことだった。
久しぶりにヨースケは、レオンの部屋に転がり込んだ。
二階にあるその部屋の窓からは、一階の食堂からこぼれるほのかな光に照らされて、夜の闇の中に浮かぶバスが見えた。ロンドンからの長い旅を経て、いよいよカトマンズに到着すれば、マジックバスとしての使命を終え、どこか人出に渡って、山国の小さな町で余生を送ることになる。それを思うと、ヨースケはなんだか寂しいような気持ちになった。
レオンは旅疲れからか、宵の口だというのにさっさと寝てしまい、カズも同じ部屋に泊まるはずだったが、荷物だけ置いて姿は見えなかった。一人で退屈なヨースケは、長い旅をともにしたバスをじっくりと見ておこうと思い、部屋を出た。
バスは長旅でドロと埃に汚れていたが、見慣れた絵の一つ一つに思い出が染みついていた。お花畑から覗くガネーシャ(象神)。サイケデリック文字で書かれた「RAINBOW EXPRESS」。車体を包み込むような大きな虹。そして、正面のピース・マーク。それはいつか、ヨースケにとっての可愛らしい「伝説」になるに違いなかった。
夜、国境の町は静かだった。
インド近隣の国では、街道筋の宿はどこも似たようなもので、食堂を兼ねているところも少なくなかった。この宿も一階が食堂になっていて、その造りはカフェテラス風といえば聞こえは良いが、実際は店先に汚いテーブルと椅子を並べただけの粗末なものだった。
ヨースケはそこでチャイを飲んでから部屋に戻ろうと思い、店に足を向けると、裸電球の光の下に一人座るアンの姿が見えた。
「アン、どうしたの?」
「とうとう、部屋を追い出されちゃったわ」
ヨースケに気づくと、アンは苦笑しながら答えた。
「だから、カズさんいなかったのか」
「もう一つ部屋をとったんだけど、なんだか寝付かれなくって」
「ここ、いい?」
「もちろん」
チャイを注文しながら向かいの席に腰を下ろすヨースケには、左の頬に青く痣が残っていた。それを見てアンが心配した。
「痛くない?」
「大丈夫」
そう言ったものの、本当はまだ痛みは残っていて、やせ我慢していただけだった。
「ありがとう。私たちを守るために」
「いや、僕はなんにもできなかった」
「それは違う。あなたは命をかけてくれたわ」
「そ、そんな。大袈裟だよ」
ヨースケは照れながらチャイに口をつけた。しかし、その後に言葉が続かず、沈黙が続いた。そして、しばらくして、アンが 口を開いた。
「ねぇ、私、この話したかしら?」
「なに?」
アンは楽しいことを思い出すように話し始めた。
「私ね、ブライアン・ジョーンズと握手したことあるのよ」
「ブライアン、って? ローリング・ストーンズの?」
「そう。私のアイドル。あの時のことは忘れられないわ。すごく緊張しちゃって」
ヨースケはその話に少なからず興奮を憶えた。
「いつ?」
「一九六七年」
「どこで?」
「モンタレーよ」
「モンタレーって・・・。まさか、モンタレー・ポップ・フェス?」
「そう。私はサンフランシスコに住んでたから、モンタレーはそんなに遠くなかったの。あの夏はサマー・オブ・ラブって呼ばれて、素敵な年だったわ。私もまだ十八歳だった。そうそう、あのコンサート、映画になってるけど観たことある?」
「去年、テレビでやってたから、見たけど」
「なんだ! それじゃ、私を見たのは初めてじゃないってことになるわね」
「えっ! あれに出てるの?」
「そんなにびっくりしないで。ほんの一瞬だけよ」
「それじゃ、ジミ(ヘンドリクス)やジャニスも見たの?」
「もちろん。私、けっこう前の方で見てたのよ。すぐ近くにママ(キャッス・エリオット、ママス・アンド・パパス、七二年没)が座ってて、彼女、ジャニスが歌い始めたら大喜びしてたわ。でも、ジミはちょっと怖かった。まだ私も若かったし、あのステージはショッキング過ぎたわ。すごいノイズで、最後にはギター壊しちゃうんだもの。あんなの観たことなかった。でも、今は観ておいて良かったと思ってる。だって、この話するとみんな羨ましがるんだもの」
ヨースケの体は硬直していた。羨ましいどころの騒ぎではなく、それはまさに「神話」そのものだった。
しかし、アンは急に俯くと、寂しそうに微笑んだ。
「でも、みんないなくなっちゃった。ママも、ジミも、ジャニスも・・・、ブライアンも」
その後、しばらく話が途絶えたが、
「ウッドストックにも行ったの?」と、ヨースケが聞いた。
「行かなかった」
「どうして?」
「行こうと思えば行けたけど・・・。ウッドストックのあった六九年には、ヒッピー運動や反戦運動がすごく過激になってしまって、六七年にあった平和な雰囲気はなくなってたの。私は非暴力主義だったから仲間と議論しても、『手ぬるい! それじゃ世界は変わらない』ってよく言われたわ。六八年にシカゴがあんなことになってから、私は時代についていけなくなったの。だから六九年にはニュー・メキシコのコミューンにいたわ。
いいところだった。そこはもと牧場だったから、土地が肥えてて、作物がよく実ってね。でも、ほかのコミューンは大変だったみたい。みんな田舎に自然と自由を求めて行ったんだけど、農作業なんかしたことのない人たちが多かったから、思うように作物が育たなくて、食料の調達に苦労してたわ。私たちは幸運だった。それに、いい仲間がたくさんいて楽しかった。コミューンの近くに小さな山があってね。その裏側がちょっとした平地だったの。そこに私たち、大麻畑を作ってたのよ。山の向こうだから土地の人にも見つからないだろうって思って。たけど、ヒッピーがいるっていうだけで白い目で見られて、時々、警察のヘリコプターが監視に来たわ。畑の手入れをしてる時なんかにやって来ると、みんなしゃがみ込んで葉っぱの中に隠れるの。でも、なにも見つからないから、すぐに飛んでったわ。すごく怖かったけど、行っちゃうとなんだかおかしくって、みんなで笑ったものよ」
しかし、それまで楽しそうに話していたアンが、少し表情を暗くした。
「でも、楽しいことばかりじゃなかった。些細なことでよく喧嘩になったわ。一番もめたのは、〈お肉〉のことね。食事にお肉を使うかどうかはいつも問題になったわ。菜食主義を決めた人たちには、料理だけじゃなくて、食用の家畜を飼うことも許せなかったの。お互いに少しづつ妥協はしていったけど、最後まで解決できない問題だった。ほかに問題っていえば、お決まりの男女関係ね。新しい男女のあり方を求めた時代だったから、『同じカップルが長く付き合うのは不自然で保守的だ』、なんて言うわりに、実際は嫉妬の嵐なのよ。ほかにもあげれば切りがないけど、いつの間にか一人減り二人減りして、だんだん寂しくなっていった。私も長くいたほうだったけど、しだいに希望が持てなくなって、七二年にコミューンを出たわ」
「その後は?」
「家に帰った。家に帰って、普通のOLになったの。ようするに、〈ドロップ・イン〉ね。そんなふうに言うと、なんとなく格好がつくけど、惨めだったわ。親は喜んだけど」
「それから、ずっとOL?」
「そうよ」
「じゃぁ、今度の旅に出たのは、なんで?」
「スーが誘ったの。私とあの娘は年が離れてるでしょ。私がフリーク(ヒッピー)だった頃、スーはまだ小さかったわ。でもこの頃、大きくなって、私にいつも言うの。『昔のほうが生き生きしてた』って。あの頃の私は憧れだったんですって。でも、家に戻った私は別人みたいに大人しくなっちゃって、物足りなかったみたい。それで仕事を辞めさせて、旅に連れ出せば昔の私に戻るんじゃないかって考えたらしいの。初めのうちは断ってたんだけど、あんまり粘るから、とうとう負けちゃってね。本当は期待してなかったんだけど、始まったらワクワクしちゃった。だって、すごく素敵な旅なんですもの。それにこんなに素晴らしい人たちと出会えるなんて。とくに、ヨースケ。あなたと会えたことが一番嬉しかった」
急に、ヨースケの鼓動が高鳴った。
目の前で微笑むこのアメリカ女性は、一回りも違う大人の女だった。しかし、その美しさと優しさは、まだ幼い少年にとってさえ、一人の女性としての魅力に溢れていた。そして、ヨースケは自分の心の中に、今まで感じたことのない熱い感情があることに初めて気がついた。
ヨースケは戸惑った。
今まで、姉のようにしか見えなかったアンが、突然、愛おしい女性として目に映った。
アンはヨースケの心の中で起きた変化に気づいてはいなかった。しかし、デリーの宿でレオンが話したことが、もし本当なら、いずれ話さなければならないことがあった。そしてそれは今、この時だと思った。
「私、この旅が終わったら・・・、主人のところに、帰ろうと思うの」
ヨースケはアンが今、とても大切なことを口にしたという、そのことは理解した。しかし、それがどういうふうに大切なのか、一瞬で理解するには、あまりにも突然で、そして過酷だった。
「主人がね・・・」
「えっ?」
「主人がまだコミューンで頑張ってるの」
「・・・・・・・」
ヨースケの目には、急にアンの姿が遠くなって見えた。
そして動揺が滲み出した顔を見て、アンは少年の心を察した。しかし、真実を伝えなければならないと、自分に言い聞かせた。
「今話したニュー・メキシコのコミューンに、一人で残って、畑を耕してるわ」
「そう、なんだ」
ヨースケは、一つ、相づちをうつのが精一杯だった。
「手紙は何回かやり取りしたけど、もう五年も会ってない。でも、今もれっきとした夫婦なの。あの頃、みんなにちょっと軽蔑されたけど、私たち、ちゃんと籍は入れたから・・・」
アンは言葉を詰まらせたが、もう一度心を整えて話を続けた。
「この旅に出る前、昔の友達から、彼の噂を聞いたわ。あの時のままだって」
そして、アンはヨースケだけでなく、自分に対しても言い聞かせるように言葉をかみしめながら、言った。
「私、彼ともう一度やり直してみようと思う。あそこはもうコミューンじゃないけど、待ってる人がいる私の家だってわかったの。この旅が終わったら彼のところに戻ろうと思う。そう思わせてくれたのは、ヨースケ、あなたよ!」
アンの目に涙が光っていた。そして笑顔で、優しく語りかけた。
「頑固なところが、あの人にそっくり」
その時、ヨースケは不思議と心が落ち着いた。
アンには彼女を包み込んでくれる存在がいた。普通ならその男を妬んだかもしれない。しかし、ヨースケには、まだ女性一人支えるだけの力はなかった。そしてなにより、その人は一人になってもなお、自分の道を貫く意志を持つ人だった。アンに、その人と自分を重ねて見てもらえたことが、なにか、とても誇らしかった。そして、素直に思った。
……… これで、いいんだ。
「ごめんね、つい、思い詰めちゃって」
「そんなことないよ」
ヨースケが心から微笑んだ。
その曇りのない笑顔を見て、アンは自分の想いが少年に届いたと、心で喜んだ。
「あのね、もう一つ話しておきたいことがあるの」
「なに?」
「スティーブンのこと」
ところがその名前を聞いて、ヨースケは今までとうってかわって、表情を曇らせた。
「そのことは、もういいよ」
「よくない! ちゃんと話をしておきたいの」
「でも・・・」
「お願い、聞いて」
アンの真剣な眼差しがヨースケをとらえた。
「彼のことは残念だった。イスタンブールからずっと楽しみにしてたのにね。辛かったでしょ。たぶん、なにも信じられなくなったんじゃないかしら? 私もすごくショックだった。だから、気持ちはよくわかる。でもね、だからって、彼のすべてを否定してしまうのは間違いのような気がするの。あの頃、スティーブンはたくさんの人たちに希望を与えたわ。『諦めるな! お互いに優しさを持ちあえれば、新しい世界を創造していける』って。もし、そこに偽りがあったら、あんなに説得力を持てなかったと思うの。彼が考えてたこと、夢見た未来まで間違ってたとは、私にはどうしても思えない。
確かに、スティーブンは自分で自分を破壊してしまったわ。彼にいったいなにがあったのか、私にはわからない。でも、今になって思うの。彼が一人で背負い込んでしまった時代の重圧は、想像以上だったかもしれないって。みんな彼を〈カリスマ〉なんて呼んでもてはやしたけど、肝心なところを人にまかせて、お祭り気分だけ楽しんでた人たちも多かった。六〇年代は素敵な時代だったけど、反対にそういうルーズで残酷な面もあったわ。そして時代が終わると、嘘みたいに、みんな問題に関心がなくなっていった。なにも解決してないのに。彼の中ですごい葛藤があったんだと思う。でも、いい加減な人なら、適当にやってるはずよ。昨日まで反体制を気取ってた人が、今日は大企業の一員なんていくらでもいるの。恥ずかしいけど、私もその一人ね。
真面目だったからよ。彼がそんなふうに調子良く振る舞えなかったのは。ヨースケは私に、『時代に置いてけ堀にされた』って話したことがあったわね。スティーブンも同じなのよ。それも、とんでもない重荷を背負わされて。ジャンキーになってしまったことをかばうつもりはないわ。でも、そのことを裏切られたと思いながら、拗ねて生きていくようなことだけは、あなたにしてもらいたくないの。あなたに希望を与えた彼だけじゃなくて、駄目になってしまった彼からさえも、なにかをすくい取って、これからに生かしていかなくちゃいけないと思うの。あなたには今、その強さが必要なの。その強さって、時代に踏みつぶされるまで闘った彼に対する、〈優しさ〉じゃないかしら。そこからこそ、あなた自身の新しい〈創造〉が生まれるんじゃないかしら」
強く、優しく語りかけるアンの言葉に、いつしかヨースケは引き込まれていた。
そして、アンは一冊の本をヨースケに差し出した。
「捨てちゃ、だめよ」
それはヨースケがカブールで道端に投げ捨てた、スティーブン・セバスチャンの「破壊から、創造へ」だった。ドブに落ちて、本は傷んでいたが、一生懸命汚れを落としたあとが見えた。
「きっと、拾い出せるものがあるわ」
ヨースケは戸惑うことなく、それを受け取った。そして本を強く握り締め、汚れた表紙のスティーブンの写真と向き合あった。
いつの間にか夜も深まり、店に客は誰もいなくなっていた。
「ねぇ、ヨースケ。私、まだ、信じられないのよ」
「なにが?」
「私たち、『伝説』に乗って、ここまで来たのよ」
「レインボー・エキスプレスのこと?」
「そう。レオンのマジックバスは伝説そのものよ。噂はアメリカまで伝わってきたわ。旅に出た仲間はみんなレインボー・エキスプレスに乗りたがったけど、簡単には見つからなかった。いつ出発するのかわからないから、運にまかせるしかないものね。私のまわりで乗った人は一人もいなかった。だから、ロンドンで貼紙を見た時は信じられなかった。だって、今どきマジックバスが、それもレオンのバスが走るなんて、夢じゃないかしらって思った。
でもね、レインボー・エキスプレスの伝説って、何日でインドまで行ったとか、一台のバスに何人乗せたとか、そんな記録みたいなことじゃないの。出発する時は他人同士だった乗客が、旅が終わる頃には一つの家族にまとまった。レオンにはそういう力があったのね。今度、それがよくわかった。
国に帰ったらみんなに自慢しようっと。でも、信じてもらえるかしら?」
アンは少女のように笑った。
そしてヨースケは振り返り、あらためてバスを見ると、車体に描かれたガネーシャが笑っているように見えた。
(9章「扉、澄む」終わり。終章「ラストラン」に続く。次回、最終回)
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