2007年11月 5日 (月)

小説・レインボーエキスプレス 1章「虹急行」-6


 それからの三日間はヨースケも忙しかった。
 まず、書きそびれていた手紙を家に送った。入国にビザが必要なインドとネパールの大使館に出向いた。そして、ロンドン滞在中に稼げるだけ稼ごうと、毎日路上で歌った。しかし、動き回ったわりには実りが少なく、ビザはロンドンよりアジアで取得したほうが申請料が安いことを知り一時保留。路上ライブも旅費の足しになるほどの稼ぎはなかった。ただ、ヨースケはマジックバス料金を破格に安くしてもらえたので、旅の継続には問題はなかった。
 レオンはこれまで、基本的に乗客の人数によって料金を設定した。ところが今度の場合、この時点での確定乗客数はたった一人。家族に会いに行くのが目的で、最初から儲けを考えるつもりはなく、バスを売って元が取れればよい良いと、ヨースケには二十五ポンド(約一万円)しか要求しなかった。ただし、これは運賃であって、食費、宿代は自分持ちのため、旅費に余裕ができたわけではなかった。
 そして、出発当日。
 ヨースケは約束の時間より、二十分ほど早くのアビィロード・スタジオの前に立った。しかし、あたりを見回しても、やはりマジックバスに乗りそうな人の姿はなかった。
「やっぱり、一人か」
 それまで、乗客が自分だけでもかまわないと考えていたが、実際に出発を目前にして誰もいないとなると、寂しい気持ちになった。カトマンズまでレオンとたった二人だけの旅になるとしたら、マジックバスの意味も薄らぐような気がした。とはいっても、ここまで来てどうなることでもなく、長い旅の間にはなにか出会いが待っているかもしれないと、ヨースケは考えることにした。
 見渡せばあたりの緑は豊かで、旅立ちにふさわしい八月中旬の陽光が通りに降りそそいでいた。そして歩道の脇に荷物を下ろし、バスの到着を待った。
 ところが、だいぶ時間が経つというのにバスは来なかった。時計を持たないため、正確にはわからなかったが、約束の時間はかなり過ぎているはずだった。
 時間と場所に聞き間違いはなかった。「何回、言わせる気だ!」と、レオンを怒らせるまで何度も聞き返し、そのたびに「三日後、午後一時。アビィロード!」と言い切った。しかしその後三日間、なんの連絡も取らなかったことが、一人で待つ身の心細さを大きくした。
「ちょっと、いいかしら?」 
 突然、後から誰かが呼びかけた。振り向くと、そこには一人の白人女性が立っていた。
「私、バスを待ってるんだけど・・・?」
「えっ? バス、ですか?」
「ええ、時間になっても来なくて・・・」
 彼女は困った顔をしながら、道路の左右を確認した。
 その女性は長いブロンドの髪に、美しく端正な顔立ちで、身長はヨースケより十センチ以上高かった。身につけた無地で自然素材のブラウスはヒッピー風に袖が広がり、首からかけた鮮やかなビーズのネックレスが胸元を上品に飾っていた。黒地に鮮やかなインド風の刺繍をあしらったロングスカートが微風に揺れ、足元には革製のローヒールのサンダルがのぞいていた。その落ち着いた雰囲気から年齢は三十歳くらいに見えた。
 ヨースケは一瞬、彼女の美しさに見とれたが、すぐに気を取り直して言った。
「あの、僕もバスを待ってるんですけど。でもそれ、普通のバスじゃないんです」
「それって、マジックバスでしょ?」
「そう・・・、ですけど」
「やっぱり! そうだと思った!」
 彼女は喜んで軽く飛び上がると、少し離れたところにいたもう一人の女性に呼びかけた。
「スー、やっぱりここでいいみたい!」
 そしてヨースケに向き直ると言葉を続けた。
「あなたのその恰好と荷物。そうじゃないかと思ったのよ。それとあの娘、私の妹なの」
 スーという名前で呼ばれた娘は、荷物を持ち上げると二人のところに走り寄った。彼女も髪は長く、ブロンドで軽くウェーブがかかり、姉妹といわれればどこか似ていたが、姉とは違ってとても快活な印象があった。服はタイトなTシャツに脚にピッタリとしたスリムのジーンズ。足には赤いパンプスを履いていた。いくらかヨースケより大人びた感じもあり、年齢は二十歳前後に見え、そして、容姿は端麗を極めた美少女だった。
「良かったわ。私たちだけかと思った」
「いえ、僕こそ一人かと思ってました」
「それじゃ、これからネパールまで一緒ね。こっちは妹のスー。私はアン。アメリカから来たの、よろしくね」
 そう言って握手を求められるとヨースケは緊張した。二人の美女を前にしてギクシャクとした動作は、見るからに滑稽だったが、かえってそれは姉妹の好感を呼んだ。
「お名前は?」
「ヨースケです。日本から来ました」
 しかし、その後の言葉が続かず、困ったヨースケはなにか話そうと、必死で話題を探した。
「と、ところで、今、何時ですか?」
「一時四十分よ」
「もう、そんなになるんですか? 一時って言ってたのに」
「そうよね。 出発は一時って書いてあったわ」
「書いてあったって、どこに?」
「カーナビー・ストリートのブティックに貼紙があったの。それを見たら驚いちゃって・・・」
 アンがそう言いかけた時、スーが叫んだ。
「アン! あれじゃない?」
 彼女の指さす方向から、一台のバスが走って来ると、ゆっくりとスピードを落としながら彼らの前に止まった。バスを見て姉妹は「素敵じゃない!」と、はしゃぎ始めた。そして、レオンが運転席横の窓を開けて手を振った。
「おぉ! 三人もいるじゃないか! 遅れて悪かった。さぁ、乗った、乗った!」
 アメリカ人姉妹は荷物を持ち上げると、大喜びでバスに乗りこんだ。
 しかし、ヨースケはこれから長い旅をともにするバスを目の当たりにすると、表情も身体も固まって、身動きできなくなった。
「な、なに、これ?」
 バスは確かにボディーにペイントされてはいた。しかし、それは太いアウトラインで描かれたお花畑と蝶々の絵で、色も、赤や緑や黄色、原色のペンキをそのまま使っただけの単純な仕上がりで、車体の後部にはには「KINGSTON KINDERGARTEN(キングストン幼稚園)」と書かれていた。まさしく幼稚園のスクール・バスだった。さらに、それだけではなかった。ヨースケの古い記憶の中に、これと同じ絵があった。その記憶を探るようにバスを眺めていると、欧文の園名の下にもう一つ漢字の名称があるのに気がついた。もはやバスが日本製であることに疑いの余地はなく、消されないまま残っていたその漢字の名称は、このバスのもとの所有者であるに違いなかった。そこに書かれていたのは「私立三河幼稚園」。
「こ、これって、僕が、通ってた幼稚園・・・・」
「おい、なにしてんだ! 早く乗れ!」
 レオンがせかしても、ヨースケの足どりは重かった。
「嘘だよぅ」
 力なくつぶやき、軽い眩暈を覚えながらも、なんとかバスに乗り込んだ。しかし幼稚園に通っていた頃、いじめられっ子だったヨースケは、毎朝このバスに乗るのが嫌でしかたなかった。何度も泣きなが拒絶し、それでも無理やり乗り込まされた幼年期の悪夢が鮮明に蘇った。
「やめて!」
 さらにひどい眩暈に襲われながら、泣きそうな声でつぶやくヨースケをよそに、アメリカ人姉妹は喜びはしゃぎ、レオンもエンジンをかけると、
「レインボー・エキスプレスにようこそ!」と叫んで、アクセルを踏み込んだ。
 ヨースケはその勢いでよろけながらも、運転席の後まで行った。
「レオン。このバスは、いったい、なに?」
 険しい表情で聞くヨースケだったが、運転を始めたレオンはそれを振り返ることもなく、得意げに話し始めた。
「いいだろ! こいつはな、古いことは古いが、エンジンは絶好調だ。なんてったって日本製だからな」
 そんなことは言われなくても、ヨースケには激痛が走るほどよくわかっていた。
「それがよぉ、笑っちまうが、オレがこいつをついこの前まで運転してたのさ。オレの首になった仕事ってのはスクール・バスの運転手よ。オレがいらなくなったついでに、こいつもいらなくなって、巡り巡って、またオレのとこに来ちまったってわけさ。でもな、こいつはなんてったって日本製だ。この頃、インドやネパールじゃ、やたら日本製品が人気らしい。こいつならすぐ買い手はつくってわけよ!」
 上機嫌のレオンに、聞き返す声は虚ろだった。
「なんで、こんなのがイギリスにあるの?」
「知らねぇなぁ。そんなこと気にしてちゃ、話は始まらねぇさ」
「いやだぁ!」
 ヨースケはこの時ばかりは日本語で叫んだ。ところが、レオンはそれを英語の「YEA!」と聞き間違え、「よしきたぁ!」とばかりに、アクセルを思いっきり踏み込み、その勢いでヨースケの体は後に吹き飛んだ。
「大丈夫?」
 アンとスーが心配そうに声をかけると、ヨースケが起きあがって力なく言った。
「なんにも残ってないと思ったら、こんなのだけ、残ってる」

(1章「虹急行」終わり。2章「チープスリル・パリス」に続く)

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2007年11月 4日 (日)

小説・レインボーエキスプレス 1章「虹急行」-5


「もう来ないかと思ったよ」
 夕方、店が忙しくなる前、ひょこり顔を出したヨースケに店の主人が言った。
 しかし、なにも答えず入り口に立つ少年の姿をみて、主人はすべてを察した。
「ダメ、だったみたいだな」
「探し方がいけないかもしれないけど・・・、もう、疲れた」
「そうか」
 主人はいつものようにコカ・コーラをグラスに注いだ。
「これは、おごりだ。まぁ、とにかく、店に入りなさい」
 ヨースケはカウンターまでやって来たが、荷物を下ろすこともなく、俯いたままだった。
「どうしていいか、わからなくなっちゃった」
「力になってやりたいが、こればっかりはな」
「どこにも、なんにも残ってない」
「まぁ、そう言わないで」
 声を震わせながら話す少年が、主人は不憫でならなかった。
「なんで、もっと早く生まれなかったのかなぁ?」
「そんなこと言ったって、しかたないじゃないか」
「なにもかも、全部、終わっちゃってる」
 主人は力なく俯く少年をを元気づけよう考えた。
「あのな、時代ってのは、繰り返すもんだ。またいつか、いい時も来るさ」
 しかし、それは逆効果だった。
「それって、いつ? 十年後? 二十年後? 僕・・・、待てない」
 俯くヨースケの目から涙がこぼれた。
「マジックバスっていうのは、君にとっちゃ、よほど特別なもんなんだな」
 主人はこの時、夢が破れた少年のショックは想像以上に大きいことを知った。
 その時だった。
 突然、背後から重い足音をドカドカと響かせながら、店に入ってくる者がいた。
「小僧!  まだ、いやがったのか!」
 振り向いて見ると、そこにはあの巨体があった。
 そのやたら大きな声にヨースケは圧倒されて、身動きできなくなった。そして、巨体は小さな少年の前に立ちはだかり、見下ろすと、また店が振動するほどの声で怒鳴りつけた。
「お前、オレになにしやがった!」 
主人も尋常でない事態に驚き、レオンをなだめた。
「どうしたんだ、いい大人が! 落ち着け!」
 その言葉に、レオンはひとまず荒れる気を抑えると、テーブル席の一つにドカッと腰掛けた。
「おい! ギネス!」
 主人は酒場での揉めごとに慣れているのか、平然としてビールの用意を始めた。そしてレオンは、
「小僧! ここに座れ」と、向かいの椅子を指し示しすと、ヨースケは言葉に従って恐る恐るそこに座った。
「お前は、いったい、なにもんだ?」
 ヨースケはその唐突な質問に戸惑った。どう答えていいやら、迷いながら、とりあえず口を開いた。
「日本の、高校生です」
 するとまた、店に大声が響いた。
「そんなこたぁ、わかってる!」
 浴びせかけられた大声に驚いてヨースケは後ろにのけぞり、間髪入れずにレオンの怒声が続いた。
「なんか変な力で、オレを困らせようとしただろ!」
「へ、変な力?」
「そうだ! 魔術とか、呪いとか・・・、なんだ、そういう変なのだ!」
「えっ、え? ま、魔術? 呪い?」
「あぁ、そうだ!」
「な、なんですか、それ?」
「オレはなぁ、この五日間、わけのわからん・・・、とにかくひどい目にあったんだ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんにもしてません。それに、変な力って? だいいち、僕は実存主義者です。そんなもの持ってないし、信じてません!」
 恐怖に怯えながら、ヨースケの口から必死に飛び出した言葉は、レオンの勢いをいくらか鈍らせた。そして、一呼吸おいてから、ぽつりと言った。
「オレも、そんなもんは、信じてない」
 ヨースケは椅子にしがみつくように、身体を震わせながら自分を見下ろす巨体を見上げた。
「じゃぁ、こりゃ、いったい、どういうことだ?」
 レオンはいくらか冷静さを取り戻して語り始めた。
「お前に会った次の夜のことだ。オレは夢を見た。普段、見るような夢じゃなかった。インドの象の顔した神さん、ガネーシャとかいうやつだ、あれが出て来た。オレには信心なんてねぇのに。そいつが言うんだ、『たまにはこっちの方にもおいで』だとよ。笑ってやがった。胸くそ悪いったらありゃしねぇ。オレはああいう、神とか仏とか大嫌いだ!」
 頃合いを見計らっていた主人が、テーブルにビールを置くと、すかさずレオンはワン・パイントのグラスを手に取り、一気に飲み干した。そして、「パイント、もう一つ!」と言って、また話を続けた。
「その次の日。ネパールから手紙が届いた。カミさんからだ。といっても、もう、随分前に別れちまった女房だがな。最後に会った時なんか、オレの顔なんか二度と見たくないって言って、そのまま長いことご無沙汰だった。ところがた。『娘もだいぶ大きくなった。しばらくネパールにいるから、顔でも見に来ないか』なんて書いてあった。どういう風の吹き回しだ? 変なことの前触れでなきゃいいが、と思った。そうしたらなぁ、ほんとにそれが起こったんだ!」
 レオンは不可解なものでも見るような目でヨースケを見た。
「その、また次の日。勤め先に行ったら、雇い主が『お前は首だ』って、ぬかしやがった。〈合理化〉だそうだ。なんの前触れもなしにだ!」
 怒りをぶちまけるように語気を荒くし、さらに続けた。
「そのまた、その次の日。アパートの管理人が来やがった。なんだと思ったら、アパートをぶっ壊して新しいのを建てるから引っ越せ、なんて言いやがった。住んでるオレの事情も聞かずにだ。あぁ、もちろん言ってやった、『冗談じゃない!』ってな。ところがだ、『文句なら滞納家賃を払ってから言え』って、こうだ。立て続けだぞ! どういうことだ?」
 レオンは少しおいて椅子の背にもたれ、腕組みをした。そして、話はさらに続いた。
「これで終わりじゃない。そのまたその、また次の日。昨日だ。今度は見たこともないやつが来やがった。そいつがなんて言ったと思う。『処分に困ったバスを引き取ってくれるってのはあんたか?』だとよ!」
 ここまで話すと、レオンの語気か弱くなった。
「これじゃぁ、変な魔術だかなんだかの仕業と思うのも、無理ないだろ」
 すると、ヨースケは恐る恐る聞き返した。
「偶然・・・、じゃ、ないんですか?」
「まぁな。でも、まるでオレに『マジックバスを転がせ』って、言ってるみたいなもんじゃないか」
 そして、レオンは溜息まじりにつぶやいた。
「街道がオレを呼んでるのか?」
「それって・・・、どういう意味ですか?」
 ヨースケはまだ、話が飲み込めなかった。ただ、話の流れが変わったことに気がつくと、しだいに緊張と恐怖は消えていった。
「そうは言っても、見飽きた街道の景色なんか見たくもねぇ。それになぁ、マジックバスは客あってのマジックバスだ。ただ、ネパールまで運べばいいってもんじゃない。それで、考えた。あの日本人の小僧がまだここにいれば、あいつ次第だ。そう決めて、今日ここに来た。・・・、そうしたら、まだ、いるじゃねえか」
 ヨースケの胸に「希望」が光った。
「行くんですか!?」
「だからぁ! お前次第だって言っただろ。行くのか? 行かねぇのか?」
 ヨースケは元気良く叫んだ。
「行きます!」
 レオンは顔に笑みを浮かべると、いきなりヨースケの肩を叩いた。その重量に、少年の体は床に倒れそうになったが、なんとかテーブルにしがみついた。
「面倒くせぇなぁ。でも、まぁ、しかたない。行くとするか」
「やったぁ!」
 ほんのしばらく前まで、路頭に迷って、絶望しかけていたヨースケに、突然道が開けた。
「この前はなぁ、悪気があって冷たくしたんじゃない。時代が終わったのは、本当のことだ。いらん期待をさせるのはかえって酷だと思ってな。冷たいやつだと思ったろ」
「そんなことないです」
「ほんとか? まぁ、いい。偶然にしちゃぁでき過ぎだが、とにかく、レインボー・エキスプレスのラスト・ランだ」
「レインボー・エキスプレス?」
「知らねぇのか? オレのマジックバスの呼び名だ」
 レインボー・エキスプレス。
 その名前の響きが、興奮の頂点にあったヨースケの、生まれ持った強い「妄想癖」を刺激した。
……… 鮮やかにペイントされたボディーに太陽の強い光をサイケデリックに反射させながら、凄まじい勢いで見知らぬ砂漠を爆走するマジックバス。軽快に響くエンジン音に車内から溢れるロック・サウンドが絡みあい、乾いた空気を震わせながら無限の空間に広がって行く。遠く、行く手には霞み一つない。さらにスピードを上げて遥かな地平線を目指すバスは、極彩色の砂煙を巻き上げ、そして舞い上がった砂はやがて七色に輝きながら、彼方の空に大きな虹を結んだ。その虹を背景にバスはどこまでも、どこまでも走り続けた。
「おい。大丈夫か?」
 すっかり天然トランスに入っていたヨースケを心配してレオンが言った。
「はっ? ・・・、はい? えっ? なんですか?」
「お前、なんか変なもんやってんじゃねぇだろうな?」
 その声で我に返ると、しどろもどろになりながら、聞いた。
「いつ? どこに行けばいい? なにをすればいい?」
 その慌てた様子を見てレオンは笑った。
「話によると、今度のバスは手入れが行き届いてるみたいだ。とくに手伝ってもらうことはない。今のうちにロンドン見物でもしとけ。けどな、すぐにでも行きたいとこだが、用意しなきゃならん書類もあるし、野暮用もある。いいか、三日後の午後一時。アビィロードだ」
「スゴい! ビートルズのスタジオがあるとこ?」
「あぁ、そうだってな、よく知らんが。何カ所か乗客募集の貼り紙をするつもりだ。あそこならお上りさんでもわかるだろ。まぁ、今からじゃ誰も来ないとは思うがな」
「どのバスかすぐにわかるかな? なにか目印は?」
「ボディーに絵が描いてあって、派手なバスらしい。すぐわかるだろ。あんまり大きくないみたいだが、客はどうせ少ないからかえって都合がいい。いいか、時間に変更なし。三日後、午後一時。アビィロード!」
「わかりました!」
 ヨースケは飛び上がって喜んだ。
 横で一部始終を見ていた主人も、嬉しそうに言った。
「いい旅をな」

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2007年11月 3日 (土)

小説・レインボーエキスプレス 1章「虹急行」-4


 ヨースケは翌日も、その翌日もバス・ストップに通った。
 レオンに会ってみたいという一心で、夕方から閉店までなにをするでもなく待ち続けた。ただ、お金に余裕がないため、コカ・コーラ一杯しか注文できないことが心苦しく、混んでくると立って客に席を譲り、店の隅で過ごした。そんな姿に主人は文句をいうこともなく長居を許した。
 そして三日目の夕方。
 夜の客が集まり始めるには、まだ少し早い頃、いつものようにヨースケがコカ・コーラを前にテーブル席に座っていると、
「おぅ、久し振りだな」と、入り口の方から太い声が響いた。
 見ればその声の持ち主は、でっぷりと太った巨体の男だった。年齢は四十歳前後。その風貌は肩まで伸びた白髪混じりの長髪。どっしりと貫禄を感じさせる顔には、やはり白髪混じりの口髭と顎髭。飛び出した腹のシルエットを強調するような巨体には小さめのTシャツを着て、ビッグサイズのジーンズは裾の拡がったベルボトム。そして、足には革のサンダルを履いていた。その顔を見ると、ヨースケは一瞬、ロック・ミュージシャンのレオン・ラッセルではないかと思った。しかし、改めてよく見れば別人とわかったが、やはり印象としては近い雰囲気があった。
 巨体の男は不機嫌そうな顔をしながら店の奥まで行くと、カウンターにもたれかかり、主人に向かって低い声で言った。
「ギネスくれよ。パイント(一杯)な」
「景気悪そうな顔して、どうした?」
「どうもしねぇよ、あいかわらずさ」
 主人はビールの用意をしながら、
「あんたと話をしたいって人が、そこに来てるんだがね」と、ヨースケを指さした。
 振り向いた男の目はいかにも不機嫌で、その視線に緊張しながらヨースケは椅子からぎこちなく立ち上がった。
「レオンさん、ですか?」
 男はひとまずなにも答えなかった。
「日本から来ました。ヨースケといいます」
「なんのようだ?」
「レオンさん、ですね?」
「そうだが」
「マジックバスに乗りたくて、イギリスに来ました。バスを走らせる予定はないですか?」
「ないね」
 レオンはあっさりと答えた。
 かならずしも良い返事が返ってくるとは思っていなかったが、あまりにも簡単な答えに戸惑いは隠せなかった。しかし、今一度気持ちを立て直して、ヨースケはくいさがるように問い返した。
「それなら・・・、ほかにバスはないですか?」
「ないね」
 冷ややかな口調だった。それ以上続く言葉もないヨースケにレオンが付け加えた。
「諦めたほうがいいな」
 それをカウンターで聞いていた主人は、ビールをレオンに差し出しながら言った。
「そんな言い方をしなくてもいいだろ。あんたを待って、今日で三日目だ。昔話でもしながら相談にのってやったらどうだ」
 レオンはカウンターに向き直って、ビールを一気に飲み干した。そして背を向けたまま、
「いくつだ?」と、聞いた。
「十八、です」
「今の若いやつに、ああいう旅は無理だ。インドに行きたきゃ、飛行機で行きな」
「そううじゃなくて、マジックバスに乗りたいんです。僕にとってマジックバスは・・・」
「オレは相談なんかにのるつもりはねぇ!」
 レオンの声は強く、ヨースケの言葉を遮った。
「でも・・・」
「話すことはこれで全部だ。用事がなかったら、帰りな」
 レオンは主人に二杯目のビールを注文すると、もう振り返ることはなかった。そして客が一人、二人と店にやって来ると、主人もその対応に追われ、ヨースケは居場所をなくした。それでもしばらく、そこに立っていたが、まったく振り向こうとしないレオンの背中を見て、諦めるしかないことを悟ると、「ありがとうございました」と頭をさげ、一人店を出た。
 主人は忙しくなった手を休めて、溜息まじりに言った。
「あんたらしくもない、どうしたんだ? まだ、子供じゃないか」
「だから、はやく諦めさせたほうががいいんだ」
 レオンは眉間に皺をよせながら、グラスに残ったビールを飲み干した。

 それから六日後。
 ヨースケは地下鉄駅に続く地下道に座り込んで、なにをするでもなく忙しそうに行き交う人々を眺めていた。傍らにはギターが置かれていたが、しばらく弾いてはいなかった。前には蓋を開けたギター・ケースに小銭がパラパラと投げ込まれていたが、大した金額にはなっていなかった。そして、段ボールに「マジックバスの情報を求む!」と書かれた看板は、まったく反応もなく、虚しく地下道の壁に立てかけられていた。
 バス・ストップでマジックバスへの望みを絶たれたヨースケは、次の日から地下道で路上ライブを始めた。人目につくところでマジックバスの情報を求めれば望みはあるかも知れないと考え、またロンドンの滞在費を稼ぎ出すためにも、じっとしているわけにはいかなかった。
 路上ライブを始めた頃はオリジナルを中心に曲順も考えて演奏した。アコースティック・ギターで3コードのロックンロールを強く弾き、それにハーモニカのアドリブをのせ、日本語の歌詞で歌った。東洋人のストリート・ミュージシャンが珍しいのか、通行人の中には立ち止まる人もいて、手応えがないでもなかった。しかし、長く聴き込む人はなく、みな小銭を投げて立ち去った。また、ヨースケのレパートリーはもってぜいぜい三十分。すべて歌い尽くしてしまうと、しかたなく同じことを繰り返した。立ち止まる人がいないかわりに、それに文句を言う人もなく、一生懸命歌っても、手を抜いてギターだけ弾いても、投げ込まれるお金にはたいして差はなかった。次第にやる気をなくしながらも、一日、六時間ほど路上に立ったが、一日に二食、簡単なサンドイッチを作る程度の収入しか得られなかった。
 宿泊費が稼げなければ、野宿するしかなかった。
 最初の二日間、屋外の公園で夜を過ごしたが、公園は野宿しやすいようでいて、実際は暗がりが多く、人気が少ないぶんかえって危険を感じた。反対に大きな駅の構内は、巡回の警官に注意されたり、騒々しく眠りづらかったが、夜遅くなればどこかしら寝床は見つかった。宿泊費を浮かすためなら体力の限り続けたかったが、さすがに日が経ってくると服や体の汚れが気になり始め、五日目に以前泊まったユースホステルに一泊だけ戻った。その時ヨースケは、熱いシャワーと柔らかいベッドがあるだけで、どんなにありがたいかを生まれて初めて知った。そしてもう一度、話を聞いてみたいと思ったが、すでにあの男の姿はなかった。
 その他にも、マジックバスの情報を得るために、思いつくことはなんでもしてみた。レコード屋、本屋、楽器屋、ライブハウス。その手の人たちが集まりそうなところがあれば、片っ端からあたってみた。最後には自動車修理工場まで探した。しかし、なにも見つけることはできなかった。
 ロンドンにやって来て二週間が過ぎようとしていた。
 一度はマジックバスに近づいたように思ったが、その後はまったく情報は得られなかった。ヨースケは手応えのなさに、次第に弱気になり、誰もが口にする「時代は終わった」という言葉を、心のどこかで受け入れ始めていた。
 その時、地下道に一人取り残されたようにしゃがみ込むヨースケに、スーツを固く着込んだビジネスマンが、通りすがりにギター・ケースに小銭を投げ込んだ。惰性でもギターを弾いていたなら、なんとも思わなかっただろうが、なにもせず、ただ座っているだけでは物乞いと変わりなかった。強い嫌悪を感じると、すかさず立ち上がり、ギターをケースにしまい、そこを立ち去る支度を整えた。しかし、どこにも行くあてはなかった。そして、その足は知らずとバス・ストップに向いた。

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2007年11月 2日 (金)

小説・レインボーエキスプレス 1章「虹急行」-3


 翌日、ヨースケはユース・ホステルをチェック・アウトすると、荷物を持ったままカーナビー・ストリートに向かった。地下鉄に乗りながら地図を見ると、ページの隅にカーナビー・ストリートに関するちょっとしたコラムがあり、そこがかつて六〇年代を象徴する世界的なファッションの中心地だったことを知った。しかし実際に行ってみると、さほど変わった通りでもなく、どちらかといえば地味で、華やかだった頃があるといわれてもかえって想像しづらかった。そのため通りの見物はすぐに終わってしまい、さっそくパブ「バス・ストップ」を探し始めた。
 とりあえず、パブを見つけては看板を確認しながら歩いたが、それらしい名前は見つからず、昼を過ぎた頃にはカーナビー周辺は歩き尽くしてしまった。ヨースケは食事もとらずに歩き続け、今度はすれ違う人たちに尋ねてみたが、みな口を揃えて「そんなパブは聞いたことがない」と答えるばかりだった。それでも見逃した店があるかもしれないと、同じ道を何度も繰り返し歩いたが、見かける看板は「ロイヤル・オーク」「ブラック・ライオンズ」「クィーンズ・ヘッド」など、バス・ストップに似た名前さえなかった。
 陽が傾きかけてもヨースケは歩き続けた。アーミー・バッグが肩に重く、ギター・ケースが鉛のようだった。すでにカーナビー周辺は探し尽くし、歩き続ける理由もなかったが、足を止めることができなかった。男の話がガセネタだったのかもしれないと頭では諦めても、身体が勝手に動いた。止まってしまえば、マジックバスへの希望が途絶え、その瞬間、見知らぬ外国の街角にだた一人取り残されてしまうような気がした。
 その時、一軒のパブからバーテンの恰好をした男が出て来た。
 その店はすでに何度も前を通り過ぎ、そのたびに看板を見ては、「キングズ・アーム」という店名を確認した。バス・ストップとは、明らかに違う名前に、尋ねることもせず、そこを通り過ぎようとすると、思いがけず男のほうから問いかけてきた。
「なにか、探しているのかい?」
「えっ? ・・・、あっ、はい」
 戸惑うヨースケに、男は人なつこい笑顔を見せた。
「驚かなくてもいいよ。昼から何回もウチの前を歩いてただろ。今度見かけたら、どうしたのか聞こうと思ってたんだ」
 男は頭が薄くなりかけ、年齢は五十過ぎを思わせた。そして話しぶりの貫禄から、この店の主人であろうことはすぐに想像できた。
「あの、このあたりにあると聞いて、バス・ストップという店を探してるんですが・・・」
「やっぱり、そうか」
 主人はにっこりと笑った。
「ご存知なんですか?」
「もちろん」
 ヨースケは思いがけない展開に興奮を抑えきれず、つい声が大きくなった。
「どこなんですか?」
 すると主人はなにも言わず、自分の店を指さした。
「ここですか?」
「そうだよ」
「でも、ここ、キングズ・・・・」
「まぁ、いいから、入りなさい」
 言われるままに、ヨースケは主人に従って店に入った。
 店の中は古風なイギリスを思わせる造りで、実際長い年月の染み込んだ風合いがあった。カウンターとその前に椅子が五脚、テーブル席が四つあるだけで、さほど広い店ではなかった。ヨースケにとって初めてのパブだったが、想像できる範囲のごく一般的な店で、ここがマジックバスを求めてヒッピーたちが集まった「バス・ストップ」と言われても、すぐには信じられなかった。
「なにか、飲むかい?」
「・・・、あっ、えーと?」
 主人は貧乏そうな少年の様子を察して、
「私のほうから誘ったんだ。金はいいよ。ただし、その顔で、ビールとはいかないがね」 と、言った。
 笑いながらコカ・コーラをグラスに注ぎ、カウンターに置いた。
「ありがとうございます」
 ヨースケはひとまず礼を言い、グラスを手にした。そして少しおいてから、
「あの、お聞きしたいことが・・・」と、切り出した。ところが、言い終わる前に主人から先に答えが返ってきた。
「マジックバスだろ」
 ヨースケは唖然とした。
「どうして、わかるんですか?」
「はっははは、その恰好見ればすぐにわかるさ」
 主人は大声で笑い、話を続けた。
「ここにそんな恰好の若いやつが来るとしたら、マジックバスしかないよ。昔は君みたいなのばっかりで普通の客が寄りつかなくなって困ったもんだった。でも、いい連中ばかりだったから、ワシはあいつらが嫌いにはなれなかったな。中には荒くれ者もいたが、だいたいは見かけのわりにみんな礼儀をわきまえてたよ。君みたいにな。それにしてもイギリス育ちには見えないが、なかなか立派な英語を話すじゃないか。どこから来たんだい?」 
「日本です」
「ほぉ、そりゃまた遠くから。学生さんかい?」
「高校生です」
 ヨースケは「しまった!」と思った。大学生と言うべきだったが遅かった。
「一人、かい?」
「えぇ、まぁ」
 主人が怪訝な顔をしたので、ヨースケは慌てた。
「あのっ! 夏休みの体験レポートなんです。外国のことを書くと点数が良くなるんです。日本の高校生はよくそうするんです」
「そうかい? 日本の高校生? あまり見かけないがねぇ」
「そ、そうですか? 変だなぁ・・・、あっ! そうか、みんな、アメリカとか・・・、あっち行くんだ・・・」
「そりゃ、みんな、大変だね」
 見え透いた誤魔化しに主人は呆れ顔で答えると、夜にそなえて店の準備を始めた。
「ところで、この店の名前は、キングズ・アームじゃないんですか?」
「そうだよ」
「でも、バス・ストップって・・・」
「それはだね」
 主人は仕事の手を休めて話し始めた。
「あだ名だよ。昔、この近所にマジックバス・ドライバーの親玉のようなやつが住んでて、よくウチに飲みに来たんだ。いつの頃からか、そいつを目当てに、ヒッピー連中が集まり始めたんだな。ところが、うちの店名が普通すぎて面白くないとかなんとか。で、誰かが『バス・ストップ』なんて勝手な名をつけたのさ。だから、わかるやつにはわかる。わからないやつにはわからない。近所じゃ、聞かれてもなんのことかわからんはずだ」
 ヨースケはその話で、やっと昼間の苦労の理由を理解した。そして、話の一点に強い興味を持った。
「その、マジックバスの親玉って?」
「レオンってやつだ」
「レオン・・・」
「その手の連中の仲間うちじゃ、随分顔らしい。あいつがバスを出すっていった日には、そりゃすごかったよ。席なんてすぐに埋まっちまったもんさ。ワシには、そのなんだ、インドだか、ネパールなんてのは興味なかったが、お陰でうんと稼がせてもらったよ。ほかにもドライバーはいたが、あいつほどのやつはいなかったね。インドまで何日で走ったとか、一度に何人運んだとか、一年で何台走らせたとか、今でもそんな話をしながらあいつのことを『伝説のドライバー』なんて呼ぶやつが、たまに来るよ」
 ヨースケは「伝説」という言葉に弱かった。話が進むうちに、少しづつマジックバスに近づいていくような希望を感じ、興奮を抑えられなかった。
「近いうちにマジックバスはありませんか?」
 しかし、主人の答えは期待はずれだった。
「この頃は聞かんなぁ。昔はよく『マジックバスの貼紙をさせてくれ』って連中が来たもんだが、ここ何年か、そんなこともなくなった」
 ヨースケの希望は一瞬にしてしぼんだ。
「ご覧のとおり、今は普通のパブだ。君みたいな若いもんが来るのも久しぶりだ。ああいう時代は終わったんだろうな。おかげでまた近所の連中も来るようになったが。レオンも最近どこかへ行ったなんて話はしないし」
「えっ? その人、今でもここに来るんですか?」
「あぁ、時々な」
「会ってみたいです! いつ来るんですか?」
 唐突なヨースケに、主人が笑った。
「そいつは、わからんね。あいつのとこには電話もないはずだ。待つしかないだろう」
「待たせてもらってもいいですか?」
「あぁ、かまわんよ。しばらく見ないから、近いうちに顔を見せるだろう」
 主人の話を聞く限りでは、レオンというその人物がマジックバスへの最後の望みになるかもしれなかった。
 ヨースケはわずかに希望につながった細い糸を握りしめるような気持ちで閉店まで待ち続けた。しかしその夜、レオンは姿を現さなかった。

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2007年11月 1日 (木)

小説・レインボーエキスプレス 1章「虹急行」-2


 夕方、ユースホステルに戻ると、傾き書けた陽が愛想のないコンクリートの外壁を照らしていた。その建物の三階にあるドミトリー・ルーム(大部屋)に泊まっていたヨースケは、入り口を通って階段を昇ろうとすると、受付の中年女性が呼び止めた。
「次の宿、見つかったかしら?」
 少し棘のある言い方だった。ヨースケは振り返って答えた。
「なかった、です」
「そう、困ったことねぇ」
 ユースホステルの規則では連泊は三泊までだったが、すでに滞在は五泊目だった。ロンドン市内には他にもいくつかユースホステルはあり、午前中に探せば空いたベットはあるはずだった。しかし、どこもここほど料金は安くなく、旅費に余裕のないヨースケは他のところには移れなかった。これまで無理を言って連泊を延ばしてもらったが、彼女の口調ではこれ以上は無理のようだった。
「明日、別のところに行きます」
 そう答えたものの、あてはなかった。
 見知らぬ街での野宿。親に黙ってイギリスまでやって来た少年にしても、やはりそれは不安だった。しかし、探すものが見つからず、ロンドンの滞在が長引く以上、選択の余地はなかった。
 部屋に戻ると、まだいくらか時間が早いせいか人の気配はなかった。病院で使うようなベッドが二十ほど並んだ広い室内は夕闇で薄暗かったが、ヨースケは電灯をつけて明るくする気にはなれなかった。窓際の自分のベッドに腰を降ろし、外に広がる暮れゆくロンドンの街を見ながら途方に暮れた。
「うっぅぅ・・・」
 突然、誰もいないと思っていた部屋の中ほどから、鈍い声が響いた。驚いて振り返ると、一人の男がベッドから身を起こした。
「あぁ・・・、何時、かな?」
 男がアクビ混じりに聞くと、ヨースケは戸惑いながら答えた。
「よくわからないけど、六時頃かな?」
「そうか」
「時計、持ってないから」
 時計を持っていようといまいと、人からすればどうでも良いことだったが、ヨースケは腕時計を持たないことを信念にしていた。映画「イージー・ライダー」の中で主人公が腕時計を捨てるシーンに影響され、自由な生き方を示す姿勢として考えた。もしここで、男が「なぜ?」と聞き返してくれれば、それをきっかけに、年齢に似合わない生き方や哲学を話題にできると思った。この年頃の少年なら、自分を認めてもらいたい気持ちが強く、また旅での出会いにも飢えて、それは無理もないことではあった。しかし、その浅はかな下心はかなうことなく、言葉は男の耳を素通りした。
 外はすっかり陽が落ち、窓から入る光もさらに弱くなった。あいかわらず電灯もつけず部屋は暗かったが、目が慣れるにつれて男の顔がわずかな光の中に浮かび上がった。豊かな口髭を蓄えた風貌は男をいくらか知的に見せたが、寝起きで乱れた髪の間からのぞく目には重い疲れがあった。光の加減もあって顔全体に皺が目立ち、年齢は三十代なかば、あるいはそれ以上にも見えた。
 背中を丸めてベッドに座る男は言葉もなく、胸のポケットから紙巻き煙草を一本取り出した。それを口にくわえて火をつけると、まず大きく吸い込み、しばらく息を留めてから、ゆっくりと煙を吐き出した。そしてもう一服吸うと、今度はヨースケに差し出した。
「吸うかい?」
ヨースケは男の近くまで行って腰を降ろし、それを受け取った。ジョイント(大麻タバコ)であることは、臭いですでにわかっていた。
「ここ、大丈夫なの?」
「わかりゃしないよ」と言いいながら、男は怪訝そうな顔をした。
「いくつなんだ、君は?」
 それまで窓を背後にして逆光だったため、シルエットでしかなかった少年の姿が、近くで見ると思った以上に幼く、男は驚いた。その問いは年齢だけでなく、……大麻の経験はあるのか? という意味も含んでいた。
「十八歳」
 少しさばよんで答えると、ジョイントを受け取り、男と同じようにそれを吸った。
 ヨースケには香港生まれのイギリス人の幼馴染みがいた。中学に入る前、彼は家族と一緒に香港に帰ったが、数年後、久しぶりに日本に遊びに来た時、こっそり大麻を持って来た。それですでに経験はあり、その慣れた様子を見て、男も納得すると、ふぬけたような笑いを浮かべた。
「十八か。それなら、子供でもないし、まぁ、いいか」
 そして、窓際に立てかけられたギター・ケースを見ながら、
「ミュージシャンか?」と、聞いた。
「・・・、うん」
 ヨースケはギターを弾き、歌も歌ったが、プロでもないのにミュージシャンを語るのは照れくさく、返事に戸惑った。男はそれを見抜いてか、軽く笑いながら、吸いきったジョイントを床で揉み消した。
「君みたいな恰好したミュージシャンも、今どき珍しいな。昔はそんな連中ばっかりだったけど。それより、君ぐらいの年だったら、キングズ・ロードのほうが面白いんじゃないか?」
 それを聞くと、ヨースケの顔が急に曇った。
「あそこに行ったら、『お前なんか、来るな!』って、言われた」
 男の顔に同情が浮かんだ。
「そんなこと言われたのか?」
「うん」
「確かに、その恰好じゃ、来るべき八〇年代に逆行してるかもな」
 男は溜息まじりに言葉を続けた。
「あいつら、なんにも信じないって感じだな。残念だけど、ラブ・アンド・ピースの時代は終わったよ。それと・・・、オレも一緒に終わっちまった、かな? ディランが〈時代は変わる〉って歌ったけど、今度は〈時代は変わる〉って言われる側になったってことだな」
 自虐的に笑いながら話す男の中に、ヨースケは憧れた時代の残骸を見るような気がした。遅れてきた少年にとって、それは目をそむけたくなるような姿であり、男がどんな人生の経歴を持っているのか、聞く気にもなれなかった。
「それにしても、あの頃はバカっていうか、面白いのがいっぱいいたよ。ドラッグで人生を変えるとか、音楽で世界を変えるとか、本気で考えてたもんな。変なことばっかりやって、でも、楽しかった。ビートルズの真似してインドまで行ったやつもいたし。それもバスで行っちまったんだからな」
「えっ!」
 ヨースケはその話に思わず大声を上げた。
「それって、マジックバス?」
 男は少年の思わぬ反応に驚き、ジョイントの軽い酔いもどこかへ飛んだ。
「あ、あぁ、マジックバスだ。よく知ってるな」
「ねっ! それどこにあるの? どこで乗れる? どうすればいい? ねっ! どこ行けばいい?」
 我を忘れて興奮するヨースケを、男はなだめた。
「ちょ、ちょっと落ち着けよ」
 マジックバス。
 それは六〇年代、ロンドンからインド、さらにネパールのカトマンズまで多くのフリーク(ヒッピー)たちを運んだヒッピー・バスのことだった。古くは五〇年代、廃車同然の車を運転してネパールまで運び、それを売りさばく商売を始めた者たちがいた。ちょうどその頃、アメリカでは「ビート」、イギリスでは「アングリー・ヤングメン」という若者たちの新しい文化運動が起こり、自らの欧米文化に対する不信と、その反動としての東洋志向から、アジアを目指す気運が高まった。これら新時代の意識と、廃品リサイクル商売が合体するかたちでマジックバスは生まれたと伝えられる。六〇年代に入ると、ビートから発展したヒッピーたちのフラワー・ムーブメントに加え、ビートルズのインド行きも手伝い、多くの若者がこの「不定期インド行きバス」に乗って旅をした。
「君も今どき、変わったやつだなぁ。そんなもんに乗りたくてここまで来たのか?」
「変かな?」
「そうは言わないけど、インドに行きたきゃ、ほかに方法もあるだろ?」
 ヨースケはそれに答えることもなく、アーミー・バッグから一冊の本を取り出した。その表紙にはセミ・ロングの長髪に丸メガネをかけた理知的な白人青年のモノクロ写真があり、その顔は穏やかに笑いながらも、目には凛とした信念を感じさせる気迫があった。しかし表題は漢字で書かれていて、男にはわかるはずもなかったが、その顔に見覚えがあるのか、しばらくじっと本を見つめた。
「誰、だったかなぁ?」
 そして、漢字の表題の下に小さな欧文で書かれた「To Creation from Destruction」という原題を見つけると、この人物のことを思い出して、小さく叫んだ。
「あぁ! スティーブン・セバスチャンか!」
 その本はスティーブン・セバスチャン著、「破壊から創造へ(To Creation from Destruction)」の日本語訳だった。
 スティーブン・セバスチャンはヨースケのまさに英雄だった。アメリカ学生運動の先鋒的な指導者であり、シカゴ・エイト(六八年のシカゴ暴動を煽動したとして、当局に告訴された八名の運動家)の一人としても、六〇年代にその名をとどろかせた。また、アビー・ホフマン、ジェリー・ルービンとならぶイッピー運動(政治的革命を志向するヒッピー運動)の中心的な存在でもあった。
 イッピーは政治的に社会変革を目指すという点で、文化運動としてのヒッピーとは一線を画していた。その行動は論理よりロックンロール的ノリとされ、常に過激で破壊的だった。ヨースケはこの運動自体には興味を持ったが、ほとんどの指導者や参加者たちは、やたら「ブッ壊せ!」を連発するばかりで、正直なところ頭が良いようには思えず、どうしても共感しきれなかった。しかし、スティーブン・セバスチャンの言動には他の指導者にはない聡明さと魅力があり、大きな影響を受けた。その著書、「破壊から創造へ」はヨースケにとってコーランにも等しい本だった。
「スティーブン・セバスチャンはね、六〇年代のなかばに、マジックバスで旅をしてるんだ。自分の人生を変えるような凄い旅だったって。サイケデリックにペイントされたバスでロンドンからカトマンズまで、大勢のヒッピーと一緒に暮らして、バスの中はいつもロックが溢れてて、自由そのものなんだって。そのことがこの本に書いてあって、だから、僕も乗ってみたいって思った」
 それを語る時、ヨースケはまだ幼さの残る目をキラキラと輝かせた。心の擦れた男もその姿にはさすがに打たれたのか、神妙になった。
「まいったな、まったく。オレにも君みたいな時があったのを思い出すよ」
 男は古い記憶を掘り起こすように考え込み、しばらくして口を開いた。
「乗りたくても、時刻表もバス停もあるわけじゃない。口コミしか情報はないし、運みたいなもんさ。それにこの頃、マジックバスなんて話にも聞かない。でもな、確か・・・、『バス・ストップ』とかいうパブがあって、昔はそこで情報が聞けたらしい」
「それ、どこにあるの?」
「カーナビー・ストリート知ってるか?」
「地図見ればわかると思う」
「あの近辺だったのは確かだ。かたっぱしからあのあたりのパブをあたってみるといい。そんなに数は多くないはずだ」
「ありがとう!」
 ヨースケはロンドンに来て初めてつかんだマジックバスへの希望に驚喜した。ところが、「喜ぶのはまだ早い」と、男はそれを制した。
「確か、今年の春頃、アフガニスタンでクーデターが起こったってニュースで言ってた。政情が良くないみたいだ。カブールはバスの通り道のはずだ。マジックバスがあったとしても、道が通れるかどうかわからない。そのことも頭に入れて探せよ」
 最後に不安な情報もあったが、旅が一歩前に進んだことには違いなかった。すでにヨースケは翌日からの野宿の不安さえどこかに消えていた。

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2007年10月31日 (水)

小説・レインボーエキスプレス 1章「虹急行」-1

「だからぁ、家出じゃないって!」
「じゃぁ、なんなの?」
 受話器の向こうから、母親のヒステリックな声が響くと、ヨースケも声を荒くして答えた。
「旅だよ!」
「なに言ってるの! 東京に大学の下見に行くって言ってたじゃない! なのにロンドンって、どういうことなの?」
「外国に行きたいって言ったって、お父さん、許してくれるわけないじゃん!」
「当たり前じゃない。まだ、高校生でしょ!」
「もう、十八歳だもん」
「あんたの誕生日は十一月。まだ十七歳でしょ!」
「たいして変わんないよ!」
 遠く離れた異国から届く息子の声に母親は呆れ果て、溜息をついた。
「外国なんて、もう・・・、なにも今でなくていいじゃない!」
「今でなきゃ、だめなんだって!」
「いい加減にしなさい!」
 ヨースケはロンドン・ビクトリア駅構内の公衆電話から、愛知の自宅に電話をかけていた。もちろんコレクトコールだった。
「旅だなんて! イギリスでなにするの?」
「イギリスだけじゃなくて、いろんなとこに行くよ」
「どこに?」
「インドの方」
「えっ! どこ?」
「だからぁ、イ・ン・ド!」 
「インド・・・? なにそれ? 冗談じゃないわよ! そんな危ないとこ!」
「大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないじゃない!」
「大丈夫・・・、だって・・・」
 急に、ヨースケの声が勢いをなくした。
 ロンドンに着いて五日目。これはイギリスから自宅にかけた二度目の電話だった。最初、ヒースロー空港からかけた時は、初めての外国に興奮して、両親に対して強気を通すことができた。怒る父親にも、戸惑う母親にも、とりあえず伝えるべきことを話して、「また電話するから」と勢いよく受話器を置いた。しかし今回、前とは事情が違っていた。ロンドンには来たものの、思うようにことは運ばず、つい今しがたも、キングズ・ロードで大きなショックを受けて、それがまだ後を引いていた。髪を逆立てた男の、虚ろな目が脳裏に蘇ると、心の底に重い不安が滲み出した。そしてしばらく、受話器から響く甲高い声も遠くなっていった。  
「すぐ帰ってきなさい!」
 母親の怒鳴る声で我に返ると、ヨースケも激しく言い返した。
「いやだ!」
「この夏休みを遊んだら、大学受からないじゃない!」
「いいもん」
「バカ言ってるんじゃないの!」
 堂々巡りの話に区切りをつけようと、ヨースケは一呼吸おいた。
「長い・・・、旅になるかもしれないし」
「長いって・・・、高校はどうするの?」
「もう、あんなとこには戻らない!」
 ヨースケの通う高校は県内でも有名な管理教育のモデル校だった。
 昭和五十年頃、「教育現場の緩んだ規律を締め直す」という名目のもとに、県教育委員会が徹底した管理に基づく高校づくりを推進し始め、試験的にいくつかの高校を新設した。その一つがヨースケの通う高校だった。そんなところだと知っていれば志望することもなかったが、受験する段階ではなんの説明もなく、学校の方針を知らないまま入学した。
 これらの高校は行き過ぎた校則や運営方針が、ごく一部で問題になりはしたが、学園紛争後の「シラケた時代」の中、大きな社会問題として取り上げられることもなく、むしろ、地域や保護者には喜んで受け入れられた。
 学校側はさまざまな締め付けを「校則」として生徒に強要した。その中でも生徒たちが最も嫌ったのが、月に一度ある「服装検査」だった。男女とも制服、靴下、靴、冬季用コートが規定の形状に違反していないか。さらに、鞄、文具、ハンカチ、傘などあらゆる携帯品まで検査の対象となり、サイズの規定は数センチ単位まで細かく定められた。とくに頭髪は厳しく、パーマや染髪の禁止はもちろん、男子は刈り上げ、女子は肩より長くなればゆわえることが義務づけられた。これらの規則に違反すれば、翌日には整えてくることを要求され、従わなければなんらかの制裁が加えられた。ヨースケの場合、入学以来、何度注意されても髪を切らなかったため、二年に進級した頃、一週間の停学処分を受けた。復学の際、やむをえず髪を切ったが、そのことにひどく挫折を感じ、「今後どんなことがあっても、絶対髪は切らない」と意地を張るようになり、それ以来伸ばしっぱなしだった。それでもなんとか三年の一学期終了まで、そのまま通学できたのは、担任がいくらか話のわかる人で、ことあるごとにヨースケをかばってくれたからだった。しかし、さすがに来るところまで来て、担任も根を上げ、夏休み明けに髪を切って来なければ、停学は避けられないと忠告した。
 ヨースケはむやみに反抗的な学生を気取るつもりなかった。服装の規制だけが重要な問題と考えるほど幼くもなかった。最も問題だったのは、「文化系部活動は必要ない」「生徒会も当面必要ない」という、生徒の権利を無視した強引な学校の方針だった。さらにギター、とくにエレキ・ギターは不良化の象徴として所有さえ否定し、父兄に注意を払うように警告までした。これは新設校に「ロック・サークル(軽音部)」を作る夢を持っていたヨースケにはとんでもない障害だった。そのため学校側に説明を求めたが、返ってきたのは「文化系部活動は〈遊ぶ〉からダメ」「生徒会発足は学校側主導でいずれ検討する」「ロック・サークルは問題外」と、理屈以前の傲慢なものだった。その後もヨースケは何度も職員室に行きかけ合ったが、まともに相手にもされず、生徒側に呼びかけても「しかたない」という風潮になんの手応えもなかった。孤軍奮闘の末、活路を見い出せないまま、最後の抵抗が「長髪」となった。
「パスポートを取ってみたいなんて、こんなことのためだったのね!」
 母親の苛立ちはいよいよ激しくなった。
「正攻法じゃ、無理だもん」
「なにが、正攻法よ!」
「もう、来ちゃったから、しかたないじゃん」
「お金はどうしたの?」
「自分でバイトしたお金だもん。いいじゃんか!」
 学校はもちろんアルバイトを禁止していた。しかしヨースケは無許可で夏休みなど、長期休暇に働いて貯めた金があった。初めはエレキ・ギターやステレオを買うつもりだったが、ある時から旅に出ることを考え始め、まったく使わないまま残してあった。ところがこの当時、高校生の時給はわずか三百円。余裕で旅ができるほどの蓄えがあるはずもなかった。
「なんとかなるって」
 ヨースケは母親をなだめるように言った。
「今、どこにいるの?」
「ロンドン」
「バカ! 連絡先はどこ?」
 これ以上話してもしかたがないと、ヨースケは思った。
「もう、これからは手紙にするから!」
「ちょっと、待ちなさい!」
「生きてることぐらいわかるようにするから、心配しなくていいよ」
「なに言ってるの!」
「じゃあね」
「待ちなさい! これから・・・」
 受話器は置かれた。
 電話を切った後、眉をひそめるその顔は童顔で、まもなく十八歳を迎える少年にしては幼く見えた。そのうえ小柄だったため、身なりさえ普通なら中学生に見えたかもしれない。しかし、胸のあたりまでのびた髪と、ニール・ヤング風と言えば聞こえはよいが、まったくの前時代的な風貌がヨースケを年齢不肖にしていた。
 一九七八年八月初旬。
 ヨースケが数時間前に立ち寄ったキングズ・ロードは、二度目のパンクの夏を迎えていた。
 七〇年代中期、ニューヨークで生まれた新しいロックンロールの火花「パンク」は、間もなくロンドンに飛び火し、慢性的な社会不安を抱えたこの国の若者たちの間でより過激な姿になって爆発した。前年の一九七七年。セックス・ピストルズの出現がセンセイションを巻き起こし、パンクの嵐が吹き荒れた。その夏、ロンドンは「スウィンギング・ロンドン、キングズ・ロードの夏」と呼ばれ、まさにそこは激震直後のパンクの震源地だった。
 通りは混沌としていた。短く刈った髪を逆立て、アナーキーな化粧、カミソリや安全ピンなど自虐的なアクセサリー。Tシャツを引き裂き、笑うこともなく無表情を装ったパンクスたちがうろついた。パンク・ブティックからは大音量でセックス・ピストルズ、クッラシュ、ダムドの爆音サウンドが溢れ、道行く者の耳を圧迫しながら空間に充満した。この街では、ヨースケの古典的ヒッピー・ファッションは、確実にまわりの空気から浮いていた。
 まったく、時代に遅れて来た少年だった。
 高校生活での矛盾と向き合う中で、ヨースケは一九六〇年代のヒッピー・ムーブメントに傾倒していった。人間性を剥奪する無機的な社会体制に対して、異議を唱えたカウンター・カルチャー(対抗文化)の姿勢は、そのまま自分の高校にも有効に思え、また身近に感じられた。そして、六〇年代はヨースケが幼年期を過ごした時代でもあり、「ロック」「ヒッピー」「サイケデリック」「スチューデント・パワー(学生運動)」といった時代の空気は、そのまま原風景でもあった。そのため、中学の頃から下地はすでにあり、好きになった音楽はビートルズ、ローリング・ストーンズ、クリーム、ドアーズ、ジャニス・ジョプリン、そしてジミ・ヘンドリクス。夢中で観た映画は、「イージー・ライダー」「ウッドストック」「いちご白書」。愛読書は「路上」「知覚の扉」など。典型的なフラワー・チルドレンの通り道だった。しかし、これらはすべて一昔前のものばかりで、拾い集められた伝説に過ぎなかった。なぜなら、六〇年代の文化は七〇年代のごく初期まではその勢いを持続したが、間もなく潮が引くように衰え、ヨースケが高校生になる頃には時代はすっかり「シラケ」ていた。
 それでもヨースケはキングズ・ロードに期待を持っていた。停滞した七〇年代を突き破って、ロンドンに新しい時代の波が起こりつつあることは、ロック雑誌などメディアも注目し、地方に暮らす高校生の耳にも届いた。しかし、実際にキングズ・ロードで体験したことは、思い描いた新時代とはかけ離れ、そしてヨースケを拒絶した。

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