小説・レインボーエキスプレス 8章「十字路」-3
翌日、レインボー・エキスプレスはインドに入国した。
国境を越えたインド側のパンジャブ州は、シーク教徒が多く暮らすところで、濃い髭にターバンを巻いた男たちが町を闊歩する姿は、まさに絵に描いたようなインドだった。
いつもなら、スーが一番前の席で初めて見る風景にはしゃいだが、首都デリーに着くまでの道中、車内はいつになく険悪な空気に満ちていた。そして結局、ウーベの楽観的な予想ははずれ、カズはニュー・デリー駅でバスを降りた。
「まっ、それなりにオモロかったで。もう会うこともないやろけどな」
別れ際、カズは簡単な言葉をヨースケに残しただけで、ウーベと一緒に、夕方のラッシュで賑わうニュー・デリー駅に消えて行った。
外は陽も落ちて、車内灯が灯されたが、人気の少なくなった車内はいつもより広く感じられた。それでもスーは、
「さぁ、今からインド・カレー食べに行きましょ!」と、明るく振る舞ったが、アンは小さな声でつぶやいた。
「なんだか寂しいわね。もうすぐ旅も終りなのに」
デリーの安宿はニュー・デリー駅周辺のパハールガンジ(メイン・バザール)に集中していた。あるいはいくらか離れて、円形の公園を中心に街が放射線状に広がるコンノートプレイスにも宿はあったが、こちらはイギリス統治時代に整備されたモダンな街なだけあって、いくらか宿代も高かった。そして、レオンのデリーでの常宿はこのどちらでもなく、旧市街オールド・デリーのむしろ観光には不便なところにあった。ニュー・デリー駅周辺はなにをするにも便利だったが、道路は込み入って狭く、その上、人通りも交通量も多く、バスを駐車する場所に困ったからだった。
いつもの宿に落ち着くと、レオンは一人ベッドに寝転がって、インド製のビール「キング・フィッシャー」を飲んだ。宗教上の理由から、インドでも酒類は気軽に買えるものではなかったが、イスラム圏にくらべればはるかに楽に手に入った。久しぶりのアルコールに酔いは早く、自然に瞼が重くなった。
すると、そこに部屋のドアを叩く音があった。
「誰だ?」
「私よ、アン」
「おぉ、どうした? 開いてるぞ」
アンはドアを開けると、まず部屋を見渡してから、中に入った。
「ヨースケは?」
「さっきまでいたんだが、バスに戻った」
「やっぱり」
アンは溜息をついた。
「なんだ、なにか心配なのか?」
「えぇ、ちょっと気になってて」
レオンは寝転がったまま軽く笑い、ビンの底に残ったビールを飲みほした。
「もう、大丈夫じゃないのか? けっこう普通にしてるぞ」
「そうなんだけど。でも、一人でバスに寝るようじゃ・・・」
「子供のかまい過ぎは良くないと思うけどな」
部屋はシングルでベッドは一つだったが、そのわりに室内は広く、一人床に寝るくらいならなんの問題もなかった。アンはベッドと反対側の壁の前に置かれた椅子を見つけると、そこに腰かけた。
「でも、私にはまだ大丈夫とは思えないの。なんでもないような顔してるけど、心の中は辛いにきまってるわ。信じてたものが、壊れちゃったんですもの。それもあんなひどいかたちで」
「まぁ、確かにな」
「しばらく前なら、ヨースケは上手くいかないことがあると、すぐ拗ねたり、取り乱したりしたけど、今は、ああして、みんなを気遣って我慢してるのよ。あの子なりに。それを見てると、なんだか可哀相で・・・」
「気にすることはない。あの年頃の男はな、ちっとばかしキツイ目に合ったほうが、かえっていいんだ。まぁ、そのうちいい女でも現れて、夢中になりゃ、すぐに忘れちまうよ」
「そうかしら? 傷が深過ぎないかしら? それに、恋っていったて、すぐにできるものでもないし」
それまでレオンは視線をどこともなしに漂わせながら、人ごとのように話をしていたが、それを聞いて急にアンを見据えた。
「なぁ、アン。あいつのこと、わかってないのか?」
「なにを?」
レオンは一呼吸おいてから、ゆっくりと言葉を句切りながら言った。
「あいつは、まだ、自分でも、気づいちゃいないが・・・、あんたに、惚れてるな」
思いもよらない言葉に、アンは戸惑った。
「バ、バカなこと言わないでよ!」
「まぁ、そう言うと思ったけどな」
レオンは身を起こしてベッドに座り直し、言葉を続けた。
「つまりだな、学校の先生にでも憧れるようなもんさ。かなわぬ、なんとやらだ。でも、スティーブンとかいうやつのことを忘れるのには、ちょうどいいかもな」
「勝手なこと言わないで!」
「そうか?」
レオンは顔に悪戯っぽい表情を浮かべた。
「じゃぁ、聞くが。あんたもまんざらじゃないように、オレには見えるけどな」
アンは目を伏せ、俯いた。そして言葉を失い、黙り込んた。
その様子を見ると、さすがのレオンも言い過ぎに気づき、慌ててその場を誤魔化そうと、おどけて見せた。
「悪い、悪い。冗談だ。冗談だって」
しかし、アンは俯いたままだった。そしてしばらくしてから、やっと、ゆっくりとその憂い顔をあげると、静かに言った。
「そうなのかしら?」
「さぁな?」
気遣いが足りなかったと、レオンの声にも後悔の響きがあった。
「でも・・・」
その後、アンは言葉が続かず、またしばらく沈黙が部屋を覆った。レオンは無言で次の言葉を待ち、そしてアンは目を潤ませながら、口を開いた。
「違うのよ。ヨースケを見てると・・・、あの人の、若い頃に、そっくりで・・・」
その言葉の中にレオンは、アンがこれまで誰にも話そうとしなかった過去の、虚ろな輪郭を察した。
「あんたにも、いろいろ、あったみたいだな」
旅も残すところわずかだった。デリーの後、タージマハルの町「アグラー」に立ち寄り、ヒンドゥー教最大の聖地「バラナシ」へ。そして、そこから北上してネパールへ入り、ヒマラヤを仰ぐ村「ポカラ」に着けば、あとは最終目的地「カトマンズ」だった。そこは、直行するなら三日とかからない距離にあった。
(8章「十字路」終わり。9章「扉澄む」に続く)
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