2008年2月 1日 (金)

テンジン-5

 それから十年近い時間がたって後。
 一生を旅に生きるであろうと思っていたのとは正反対に、私は日々仕事に追われる家庭の人となっていました。すでにかつての旅は遠い過去。日常に埋没し、旅人としての意識や記憶も風化の一途をたどる、そんなある日のこと。友人から一本の電話がありました。
「あのさぁ、お前が書いた旅行記に雪男探しの日本人のことが書いてあっただろ」
 私はその頃、思うところあって日記に毛が生えた程度の旅行記をまとめ、こともあろうに人に読んでもらおうなどと、その友人に渡してあったのです。
「うん、ネパールのとこで書いたけど」
 すると、友人は思わぬことを言ったのでした。
「それって、小野田さん発見した人じゃないのか?」
「えっ、なにそれ?」
 受話器をとおして聞く話はこうでした。
 前日、テレビで元日本兵、小野田少尉がフィリピン・ルバング島で発見されるまでをまとめた番組が放送された。その中で、ひとりの日本人青年が救出に一役買ったことを語っていたという。そしてその青年は、後にヒマラヤに生息するという伝説の生き物、雪男(イェティ)探しに熱中したとのこと。
 それを聞いて、私は古い記憶を頭の中に探しました。しかし、その「雪男探しの日本人」は一言も
「小野田さん」に関しては話しませんでした。
「そんなこと言ってた覚えはないけど・・・」
「でも、雪男探すやつが、そんなに何人もいるとは思えないけどなぁ」
 それももっともな話です。だとすれば、あの時の人物が小野田さんの発見者ということになりますが、それにしても、いまだに「雪男」が発見されたという話を聞かないところをみると、あの時が「最後の遠征」になったということにもなります。
「で、その人、その後どうしたって?」
「それがな・・・」
 その後に続いた話に、私は衝撃を受けました。
「ヒマラヤで遭難して、亡くなったって」
「えっ!」 
 私は驚き、戸惑いました。雪崩にあって遭難と聞いて、ほかならぬテンジンのことが気になったからです。
「遭難したのはその人だけ?」
「それはわからん。とにかくヒマラヤで遭難したっていうだけしか言ってなかった」
 私はポカラで会った人と、小野田さんを発見した人が同一人物でないことを願いました。が、その決定的な証拠もなく、この時はそれ以上のことはわかりませんでした。
 そして、それを確かめるすべもなかったのですが、しばらくして友人は一冊の本を探してきてくれました。
 それは文庫本でタイトルは「大放浪」。副題に「小野田少尉発見の旅」とあり、著者は鈴木紀夫。 略歴の最後には「八十七年、雪男を捜しに行ったダウラギリIV峰で遭難」と書かれていました。本を開いてみるといくつか著者の若い頃の写真があり、私の記憶に残るその人の姿はすでに虚ろでしたが、まったくの別人と否定することはできず、むしろ部分にかさなるところがありました。「八十七年に遭難」ということからも、私がテンジンとポカラで再会した翌年のことで、私がいうところの「雪男探しの日本人」は、まず間違いなくその鈴木紀夫氏でした。
 鈴木氏はあの時「これが最後の遠征」と語りましたが、皮肉にもそれは、「最期の遠征」になってしまったのでした。ところが、それ以上の詳しい情報は得られず、テンジンがどうなったのか、この本からも知ることはできませんでした。
 それから図書館や書店で、機会あるたびに関連する本などに目を通すようになりましたが、どれも肝心なことろにふれる情報はありませんでした。そしてある日、鈴木氏に関する一冊の本の中の、その一行に出会いました。
「一九八六年十一月、ヒマラヤ山中にて同行の三人のポーターとともに雪崩にあい遭難。翌年になって遺体が発見される」
 遭難はテンジンにポカラで会ってから約一ケ月後のこと。あれからほぼ十年たって知った、彼の消息でした。

 テンジンの消息がわかって、その時いくらか感傷的な気持ちにはなりましたが、すでに遠い過去のこと。間もなくその想いも日常の中に消えていきました。また、こういうことがわかったからといって、とりたてて友達づらするのも、今さらいやらしいことと思います。
 さらに十年が経ち、今では私も五十歳という年齢に手が届くところまで来ました。そして半生を振り返ると、それなりに「忘れ物」がぽつりぽつりと転がっているのに気がつくこの頃です。
 そして、テンジンはそのひとつでした。
 友達を気取るほどの仲ではありませんでしたが、彼の短い人生の終わりに近いところで知り合った者として、なにかしてあげられることはないかと、つねづね考えることがありました。
 思うに、鈴木氏に関しては多くの本に、またインターネット上にも人生の軌跡が紹介されていますが、その遭難に居合わせた者に関する記述はほとんどなく、私の知るところでは先に書いた「同行の三人のポーター」が唯一でした。
 せめて、その中のひとりに、テンジンという名前の気のいいやつがいた、ということを書き残しておきたいと思いました。
 情けないことに、テンジンがどんな顔をしていたのかさえおぼろで、山で育ったガッチリとした体格と、人なつっこい笑顔の気配くらいしか記憶にありません。しかしこれを書き進むうちにいろいろなことを思い出し、あの楽しく過ごした時間を取り戻せたように思います。
 世界には様々な「死生観」があるようです。この頃では「心臓が止まったとき」とか、「脳が活動を停止したとき」とかが一般的な「死」と考えられていますが、アフリカなどでは今でも「亡くなった人のことを記憶している人が、まったくいなくなったとき」、つまり記憶の消滅が「本当の死」と考える、ということを聞いたことがあります。私が生きてる間くらい、テンジンのことを忘れることもなさそうなので、まぁ、ほどほどに長生きでもしようかな、などと思ったりもするのでした。

 このようなものをご一読いただいた方には恐縮のかぎりです。ただ、誰かひとりでもこれを読んでもらえたら、良い供養になるのではないかと。見知らぬチベット人青年への、お線香一本と思って、どうか心をお治めくださいますよう。
(おわり)

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2008年1月31日 (木)

テンジン-4

 住所をたよりに宿に着いたときには、すでに日は暮れていました。
 宿の人に事情を話すと、「ちょっと待って」と行って奥に入って行き、しばらくすると、陸上競技の選手が着るようなトレーニングウェアを着た青年を連れてきました。見れば、それは間違いなく、テンジンでした。
「ヨースケ!」
 彼は満面の笑顔で走り寄ると、固い握手で出迎えてくれました。
「びっくりしたよ。顔を見るまでテンジンとは信じられなかった」
 まぁ、私もこんなことを伝えようと稚拙な語力を駆使したのですが、はたしてちゃんとした英語になっていたことやら? またテンジンが正確にそれを理解したのかさだかではありませんが、思いも寄らない早い再開にお互い喜び合いました。そして、以前と違うテンジンの服を指さしながら、
「ディス・グッド(これ、いいね)」と言うと、彼は照れながら、
「ボス・バイ・ディス」と言いました。
 私はこの時、言っていることがよくわからなかったので、
「ボス?」と聞き返すと、
「ボス・・・、ジャパニーズ。マイ・ボス」
 つまり、雇い主に買ってもらったのだということがわかりました。すると、
「カム。ボス・イン・ルーム」
 テンジンは私の手を引いて、雇い主のいる部屋まで招きました。

 宿は貧乏旅行者が利用するような古く素朴な建物で、その部屋は四、五人泊まれるくらいの広さでした。とりたてて変わったところもなく、そして裸電球の光の下で椅子に座って「その人」はいました。
 テンジンの連れてきた突然の訪問者が、
「あっ、どうも、初めまして」と、日本語を使うと、穏やかに笑いながら迎えてくれました。
 私からするとこれは意外でした。「雪男探しの日本人」と聞いて、無意識に「相当な変人」像が頭にできあがっていたのですが、それとはまったく違っていたからです。
 中年で軽く小太り気味。固そうな髪質の天然パーマ。細い目で笑いながら話す口調はゆっくり目。おおむね穏やかな人柄なのですが、それでも、一筋縄ではいかない人生を送ってきたような、なにかしら胡散臭さげな雰囲気もないとはいえませんでした。
 挨拶やら、ここに来た経緯を一通り話した後、私は半信半疑のまま、気になる本題について質問しました。
「雪男を捜してるって、聞きましたけど」
 その人はそれに照れながら、
「そうなんですよ。これが最後の遠征のつもりで来たんです」と答えました。しかし、「これが最後」いうことは、これまでにも何回か来たことになります。また、その表情からすると、自分がとくに変わったことをしているという意識はなさそうで、「照れ」はむしろこれまでの遠征で繰り返された失敗を恥じているように見えました。そして今回の遠征にいたるまでの話が続きました。
 数年前、新婚旅行でヒマラヤ・トレッキングをした時、雪男に遭遇。しかし、その時はしっかりした撮影機材を持っていなかったので決定的な証拠を残せず、その悔しさから雪男探しにのめり込んでいったとのこと。また、スポンサーがつくわけでもなく、個人での遠征のため費用は必要最低限。多くの機材や雪山用の野営資材を運ぶためにカトマンズで雇ったポーターは三人で、みな天涯孤独のチベット人青年ばかり。ヒマラヤ登山のポーターとして有名なシェルパ族は雇い賃が高く、反対に安くてもインド人は信用できず、役にもたたず。少ない費用の中でもっとも有効な方法は誠実な民族性を持つチベット人の若者を雇うこと。つまり、カトマンズのチベッタン・レストランで働くキッチン・ボーイのスカウト。そして目にとまったひとりがテンジンだったということでした。
「こいつはいいやつだから、働きを一番期待してるんですよ」と、雇い主が言うと、そばにいたテンジンは意味は理解できなくても、その場の空気を読んで笑ったものでした。
 その後も「子供に『お父さん頑張って』て、言われちゃってねぇ」と、照れながらその人は話を続けましたが、そのあまりにも荒唐無稽な目的に、はたしてどこまで本気なのか、私は最後まではかりきることができませんでした。
 そしてしばらくの後、「長居をしても」と席を立つと、宿の外までテンジンが見送りに来ました。
「寒いところだから、気をつけて」
 私が心配して言うと、
「ノー・プロブレム」と、笑いました。
「一年後にまた会おう」
「イエス・イエス」と、テンジンは答えました。

 その後、私はインドに約半年間滞在し、二ヶ月ほどかけてパキスタンからギリシャへ陸路で移動。その後、当時のヨーロッパ西側諸国を約半年かけて旅しました。
 当所の旅程は一年でしたが、勢いのついた旅は時を忘れさせ、持っていたカトマンズ・成田の一年有効航空券は結局使わずじまい。かわりにアテネで買った成田までの格安航空券は、パキスタン・カラチとタイ・バンコクのトランジットがついていたので、性懲りもなく私は再び南アジアに舞い戻り、さらにインド周辺を二ヶ月ほど旅しました。
 一九八七年の暮れ。再びカトマンズの土を踏むと、一年以上の旅を成し遂げて出発地点に戻ったという達成感がありました。テンジンとの再会はさらにその思いを深めてくれるだろうと、さっそく「タシデレ」に向かいました。
 ところが、テンジンはいませんでした。
 店の人に「テンジンは?」と聞いても、「そんな人は知らない」と、そっけない答えが返ってきただけ。店そのものは前のままだったのですが、どうやら経営者が変わって、店員もみな入れ替わったようでした。探そうにも手がかりはなにもなく、テンジンとの再会はかなわず、幕切れはあっけないものとなったのでした。
(つづく)

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2008年1月30日 (水)

テンジン-3

カトマンズの滞在は、インドラのお祭りが終わった後も、さらに一週間延び、結局ほぼ三週間という長期滞在となりました。理由は、「カトマンドゥ・キャッツ」という地元のロックバンドが、なんでも市民公会堂というところでコンサートをするというので、それを観てから次の訪問地「ポカラ」に移動することにしたからです。
 その間、ほぼ毎日、夕方近くになると「タシデレ」に通いテンジンと向かい合って、インド製子供用英語教材を見ながら勉強に励んだ・・・、というより、他愛もないことをダベって過ごしました。しかし、情けないことに、お互い恐ろしく低い英語力しかなく、ひとつのことを話すにも母語の数倍時間がかかり、それでもまだ理解できればいい方で、込み入った内容だと結局わからずじまいということもありました。
 そんな中で、私がこの旅に出てきた経緯を話題にすると、彼は驚きながら羨ましそうに聞いていました。私は日本の中で、さほど恵まれた環境に育ったという意識はありませんでしたが、テンジンからすれば、大学まで出て、さらに好き勝手に世界旅行まで出られるなど「ウルトラ・スーパー恵まれ環境」にほかなりません。反対に彼が、遠いところから丁稚奉公でこの店に来て働かなければならない背景には、想像もつかないような貧しさがあったことを想像しました。もっとも、テンジンはいつも楽しいことを話そうとして、そういった重い過去を話題にしませんでしたが。
 そして、後からわかったことですが、見た感じ同年齢くらいと思っていたのは間違いで、実際はその時の私より六つも若い、十九歳でした。たぶん、様々な苦労が少年を大人にさせるのを早めたのではないかと思います。
 そうこうするうちに時は過ぎ、カトマンズを後にする日が来ました。
 この街での最後の夕方、いつものように「タシデレ」に行ってテンジンに別れを告げると、さすがに寂しそうな顔をしました。しかし、私は成田・カトマンズの一年有効往復航空券を持っていて、またこの街に戻る予定だったので、「また、一年したら戻ってくるから」と言うと、彼に笑顔が戻りました。
「テンジンもここにいるよね?」と、聞くと
「もちろん」と応えました。
 もし万が一、動くようなことがあっても、店の者に聞けばわかるようにしておく。ということで、お互い一年後の再開を約束して、翌日、私は次の訪問地、ヒマラヤを仰ぐ小さな村「ポカラ」に向かいました。

 私がネパールに滞在した九月は、長い雨期の開けた一年でもっとも過ごしやすい時期。ポカラはほとんど毎日、空が晴れ渡ってヒマラヤの峰々がきれいに見えました。そのため、この村での滞在が二週間を過ぎても、あまりの居心地良さにお尻が重くなり、過酷なインドに降りて行く気分になれずにいました。しかし、「このまま極楽に埋没してはいかん!」と、旅人としての使命を思い出し、やっとの思いでインド行きのバスの切符を買いに行ったのですが、その後のこと。
 カトマンズの宿で一緒だった日本人旅行者とばったりと出会いました。その人はバスでポカラに着いたばかりということでしたが、思いがけないことを私に話しました。
「一緒のバスにポカラで日本人を捜したいっていうやつがいたけど、その日本人って、君のことじゃないかな?」と、言うのです。
「僕を探す?」
「髪が長くて、ギター持ち歩いてるっていってたから」
 この当時、すでにヒッピー風は時代遅れで、他にそんな者がいるとも思えませんでした。
「じゃぁ、たぶん僕ですよね。誰かなぁ、どんな人でした?」
「君くらいの年で、チベット人だって言ってたよ」と、いうことになると、思いあたるのはひとりだけ。
「テンジン・・・?」
 すると、その人は言いました。
「そう、そんな名前だった」
 私は驚きました。それがテンジンだとすると、なんでまた、ポカラにやって来たのか? なにか忘れ物でも届けに来てくれたのか? しかしなにも忘れ物はないし、あったとしてもまた一年後受け取ればことはすむ。
 なにかあって、私と旅をしようと店を飛び出したのか? しかしそんな自分勝手なことをするような性格でもなし、また経済力もなし。
 他に理由も浮かばず、
「なんでだろう?」と聞くと、その人はちょっと不可解な表情で、
「それがさぁ、・・・・」と、ことの経緯を話し始めました。
 要約すると、テンジンは雪男(イェティ)探しの日本人にポーターとして雇われて、これから数ヶ月間ヒマラヤの山中に雪男捜索のためにこもるとのこと。ポカラはヒマラヤ・トレッキングの基地の役割を果たす村でもあり、入山の準備をかねて数日間滞在する予定ということでした。
 話からすると、タシデレのテンジンにほぼ間違いありませんでした。しかし、それはそれとしても、
「雪男ぉ? なんですか、それ?」
「さぁ、よくわからないけど、よっぽどのヒマ人のお金持じゃないの?」
 そう言いながらもその人は彼らの滞在先を聞いておいてくれたので、翌日にはポカラをあとにする私は、さっそくその宿に向かったのでした。
 (つづく)

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2008年1月29日 (火)

テンジン-2

 さて、またも話は小野田さん救出劇を離れて、突然、一九八六年九月中旬のネパールに飛びます。
 この時、私は二十五歳。カトマンズを出発点にして、そこから約一年半におよぶ旅が始まって間もない、ある日の夕暮れ時。病み上がりの体を引きずりながら、山国の古都をどこともなしにぶらぶらと歩いていました。
「病み上がり」というのは、まったくの若気のいたりというか、馬鹿者というか、愚か者というか。自業自得もいいところで、ネパールに着いてさっそく、地元の人たちが入る安食堂で現地の生水をカブ飲みしてお腹を壊したからです。それも、わざと。
 というのは、インド・ネパールを旅する間に下痢は通過儀礼のようなもので、どうせやるなら、早めに慣らしてしまったほうがよいと考えたからです。おかげで間もなく具合が悪くなり、それなりにきつい目にあったのですが、当時、私はまだとても若かく、体力もあったので、三日もしないうちにすっかり治ってしまいました。すると自然と食欲も出てきて、その時は食べ物屋を探して街を彷徨っていたのでした。
 それでもやはり病み上がり。あまり重いものを食べる気にはなれず、また、現地のカレーの類はどうも鼻について、なにか日本食に近いものを胃は求めました。しかし、本物の日本食は現地の物価からすると、とんでもない値段になり、最初から日本食レストランには行くつもりはありませんでした。
 カトマンズのもっともモダンな通り「ニューロード」を旧王宮に向かって歩いて行くと、さほど広くはありませんが、王宮前広場に行き着き、そこを曲がると、かつて六十年代から七十年代の初期にかけて、世界中からヒッピーたちが集まった「フリーク・ストリート」と呼ばれる通りに出ます。もっとも、八十年代も半ばを過ぎたこの頃には、すでにそれも昔話となり、閑散としていました。そのさして長くもない通りを、フラフラと歩いて行くと、中ほどに一軒、小さく煤けた食堂がありました。入り口の造りや窓を透して見える薄暗い店内の様子から、一見、安っぽい中華料理屋のようでしたが、看板には「タシデレ」とあり、その店名からすると、どうやらチベット料理屋であることがわかりました。(タシデレ:チベット語の「こんにちは」)
 その頃、私はチベットに関してさほど知識はありませんでしたが、民族的に日本人に近いということは耳にしていたので、なにか口に合うものくらいあるだろうと、その店に入ったのでした。
 たいして広くもない店内はテーブルが六つほどあるだけで、夕食時には若干早かったせいか、若い男性がひとり座って本をひろげているだけで、他には誰もいませんでした。そしてその人物も客ではないらしく、私を見るなり、本を閉じて立ち上がると、人なつっこい笑顔と丁寧な仕種で自分の座っていた窓際の席に案内しました。
 私は招きにしたがって席に座ると、彼は店の入り口近くの勘定場に行き、メニューを持ち出して私のテーブルに開いて置きました。メニューはローマ字で書かれていましたが、すべて英語というわけでもなく、チベット料理の名前をローマナイズしたものもあり、その中に「チキン・チョーミン」というのを見つけると、私は迷わずそれを注文しました。
 この旅からさらに二年前の一九八四年。すでにインド・ネパールを二ヶ月間旅した経験があったので、「チョーミン(あるいはチョーメン)」が、日本でいう「焼きそば」であることを知っていたからです。使う肉はチキンの他にバフ(水牛)、マトン(羊)もありましたが、私には食道楽というものがまったくなく、「どれでもいい」と、チキンにしただけのことでした。
 注文を受けると彼は勘定場の横にある扉をあけて中に入って行き、どうやら調理場はその奥にあるようでした。
 料理を待つ間、なにもすることのない私は煤けた窓ガラスの向こうに見える通りをただなんとはなしに眺めていました。夕方、いよいよ空に残る光は乏しく、三、四階建てで煉瓦造りの建物が並ぶ狭い通りはすでに薄暗く、人通りもほとんどありませんでした。店内も裸電球の光はさほど明るくもなく、私ひとりだけ。そんな中で、なんだか心ぼそいような気持ちになると、この先の旅への不安がよぎりました。
 冒険旅行でもするような気分で勇んで日本を出て来たのですが、インドからヨーロッパまで陸路で旅するという大雑把な計画以外、これといった予定もなく、カトマンズには来たものの、さて、これからなにをすればいいのやら。漠然と自分の前にひろがる一年という時間に途方に暮れるばかりでした。
 するとそこに料理が運ばれて来て、さっそく口に運んでみました。それは旨いというほどではありませんが、十分口に合う味でした。以前の旅で、インド人が経営するいい加減な中華屋に入り、やはり「チョーミン」を注文したのですが、出てきたものは、麺とぶつ切りの野菜をごってりと油に混ぜて温めただけというような代物で、見ただけで具合が悪くなったことがありました。それにくらべれば、この「チキン・チョーミン」は立派な料理で、素朴な分、飽きない味のようにも思えました。
 そして食事をしながら店内を見渡すと、店員の青年は勘定場に立って、また本を開いていました。その風貌をあらためて見ると、ガッチリとした体格にはちょっと不釣り合いな穏やかな顔つきをして、服装は地元の人たちが着るような渋い色の素朴なシャツとズボンを身につけ、年齢は私と同じくらいに見えました。
 彼は私の視線に気づいて「なにかようですか」というような表情をしたので、私はとっさに料理を指さして、ちょっとお世辞混じりに「グッド」と言うと、嬉しそうな笑顔を返しました。
 そして食事を終えると、とくにすることもない私は、早々に勘定を済ませて、宿に戻ったのでした。

 旅の出発点カトマンズには、いくらか長居をするつもりで、最低でも二週間、場合によってはそれ以上の滞在になってもかまわないと考えていました。
 理由は旅費を稼ぎ出すためにしていた仕事でかなり疲労が溜まっていて、その疲れを抜くため。またこの時期は、ネパールの新年で最大の祭「インドラ」にあたっていたため、いろいろな催しもあり、見るものに事欠かなかったというのもありました。しかし祭といっても、毎日あちこっちでなにかやっているわけではなく、もしあったとしても、そのすべてを見に行くような情熱に燃えた観光旅行者では、私はありませんでした。したがって、その生活は「ダラケ」とまではいかないまでも、実に「緩慢」で、朝起きると外に出てブラブラ歩き、食事時になるとなにか食べる。ただ、日々それを繰り返すだけの、今考えれば、かつての自分でありながら羨ましい限りの生活をしていました。
 ただ、泊まっていた宿には同じような貧乏旅行者もいたのですが、残念ながらこれといった出会いもなく、この緩慢な生活はしばらくの間続いたのでした。
 そんな中、夕方になると、チベット料理店「タシデレ」に通うのがいつの間にか日課になっていました。
 というのは、先に書いたとおり私には「食道楽」というものがなく、また、子供の頃から偏食で野菜が苦手だったため、食べられるもの自体が限られていました。そのため旅の間、食べられるものを見つけると、同じ料理を飽きもせず食べ続け、結局、同じ店に通い続けるということがよくありました。
 そうして「タシデレ」に何日か通ううちに、あの店員の若者は私のことをおぼえてしまい、顔を見ると笑顔で「チキン・チョーミン」と言って出迎えてくれるようになりました。さらに二、三日すると「チキン・チョーミン」は暗黙のうちにお互いの冗談のようになり、夕方顔を合わせるだけで、まず笑いが込みあげてきて、彼が、
「チキン・チョーミン?」と聞くと、
「イエス、チキン・チョーミン」と私も答え、二人で笑ったものです。
 他に食べられそうなものもありましたが、人にウケると思うとなにか面白くて、飽きもせず同じものを注文したのです。
 そしてある時、ヒマな時に彼がいつも見ている本のことが気にかかり、食事の後に、
「なに読んでるの?」と、思いっきりブロークンな英語で聞いてみました。
 その質問はなんとか通じたようで、
「イングリッシュ・ブック」と答えが返ってきました。
 しかし、「英語の本」といってもいろいろあるので、
「イングリッシュ・ブック?」と聞き直すと、しかし彼はそれ以上説明できないようで、困った顔をしました。そして、勘定場に本を取りに行き、戻ってくると私に手渡したのです。
 それは粗末な紙でできたインド製の子供用英語教材でした。
 私は納得して、
「あぁ、ユー、スタディ」と言うと、彼も、
「イエス。スタディ、スタディ」と、答えました。
 私がこの店に行くのは、夕方といってもまだだいぶ早い時間で、その日も他に客はいなかったので、彼はテーブルを挟んで前に座りました。
 お互い恐ろしくたどたどしい英語で、身振り手振りをまじえて話をすると、どうやら、彼はどこか山奥の方からカトマンズに出てきて日が浅く、ここで生活するためには英語が欠かせないので勉強しているということがわかりました。そして、私にとっても英語はこの先の旅で不可欠。必要最低限の会話はなんとかなりましたが、込み入った話はまったくダメ。「少し勉強しなおさないと」という気持ちがありました。見れば彼の英語教材は、絵とならんで単語や簡単な表現が書かれていてわかりやすく、「こういう時って、こう言えばいいんだ」と、恥ずかしい話ですが、私にもちょうど良いレベルのものでした。
「僕もこんなのが欲しいなぁ」と言うと、彼は唐突に、
「一緒に勉強してくれないか」と言い出しました。
 また、たどたどしい会話が続いたのですが、要は、「やはり話さないことには上達しない。だから、お互い話し相手になって一緒に勉強しないか?」ということでした。
 ヒマを持てます私としても、願ってもないことで、「グッド、アイデア」と承知すると、彼は満面の笑顔で喜びました。そして、急に表情を戻すと、「名前は?」と、聞きました。考えてみればまだお互いの名前を知りませんでした。私は本名ではなく、外国人が発音しやすい、あだ名の「ヨースケ」を名乗り、返して「君は?」と聞くと、彼は、「テンジン」と答えたのでした。

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2008年1月28日 (月)

テンジン-1

「テンジン」とは人の名前です。
 チベット人男性によくきかれる名前で、日本でいえばかつての「太郎」と考えればよいと思います。また、現在のチベット法王「ダライラマ十四世」の法名がテンジン・ギャツォであり、それにあやかるかたちで多くの男の子にこの名前がつけられたようです。実際、かつての旅で出会ったチベット人にはこの名前が多く、「テンジン・タンソン」、「テンジン・ツェペル」など、はっきりいってテンジンだらけという印象さえありました。

 さて、唐突ですが、本題にはいる前にちょっと別の話に寄り道します。
 「小野田」という名字はさほど珍しいものではなく、これだけで特定のイメージが頭に浮かぶことは少ないと思います。ところが、これに「さん」を付けて「小野田さん」ということになると、かなりの人が共通のある人物を思い浮かべるのではないでしょうか。それはもちろん「元日本兵の小野田さん」です。
 一九七四年。戦後三十年経ってからフィリピンのルバング島で発見された旧日本陸軍少尉、小野田寛朗(ひろお)さんについては、ある年齢以上の日本人なら、戦争が終わった後、どういう経緯で島に残り、発見された時どんな恰好をして、さらに帰国後どうしたのか、ということを憶えている人も多いと思います。戦後の出来事としては大きな印象を残した事件のひとつでした。
 では、「鈴木紀夫(のりお)という人物をご存じですか?」という質問になると、この事件に関わる存在でありながら、その知名度はかなり低くなると思います。それでも、小野田さんに関する本やテレビ番組にはよく出てくる名前で、小野田さんの「第一発見者」といえば、「ああ、あの人か」と、わかる人も少なくないでしょう。
 では、その鈴木紀夫氏が小野田さん発見にいたるまでを、簡単にまとめてみます。
 一九七〇年代初頭。二十代前半の血気盛んな若者だった鈴木青年は、ユーラシア、アフリカ大陸を放浪する旅人でした。三年間に渡る大旅行で世界を体感してきた青年は、しかし、高度成長のお祭り騒ぎに浮かれ、その後、突然起こったオイルショックにあたふたしながら、あいも変わらず狭い国の中でわかったような顔をしている日本人たちに幻滅します。
 そんな時、「フィリピンの小さな島で元日本兵がジャングルの中に隠れて潜んでいる」というニュースを耳にします。好奇心旺盛な青年は、すっかり様変わりしてしまった日本人ではない、最後に残ったかつての生粋の日本人と話をしてみたいという衝動にかられます。
 小野田さん捜索はすでに多くの人員とお金を使って、国をあげて行われていたのですが、こともあろうに鈴木青年はそこにまったく勝手に、おまけにひとりで乗り込んで行きました。もちろんその行動を知るのは彼の友人たちくらいしかいませんでした。
 そして、フィリピン・ルバング島のジャングルの中でキャンプ生活を始めます。何日間もなにも起こらない日々が続きましたが、ある日の夕方、後ろから突然、誰かの声がしました。
「おい、おまえ、ここでなにやってる?」
 そこにいたのは銃を手にして立つ、ボロボロの軍服を着た人物でした。
 突然のことに戸惑い、敬礼しながら、「日本人です」と答えると、その人は無言で周囲を警戒する様子だったそうです。
 これがまさに探す人物その人だったのですが、逆に小野田さんにしてみれば、こんなところに、どこの国の人間かわからない、髪の毛の長い変な男がいて、それも流暢な日本語を使ったのですから、内心は驚いたことでしょう。
 その後、話をする中で、警戒心を緩めた小野田さんに青年はタバコや持参した食料などでもてなし、念願の生粋の日本人と話すという目的を果たしました。
 しかし、鈴木青年が、
「ジャングルを出て一緒に日本に帰ろう」と説得しても、小野田さんはかたくなで、「うん」と返事をしません。
「それなら、どうすれば出てくるのか?」と聞くと、
「兵隊は上官の命令がなければ、勝手な行動はできん」と答えました。そこで、
「じゃぁ、上官を連れてきて、命令されたらジャングルから出てきますか?」と聞くと、小野田さんは、
「いつでも出てきてやる」と答えました。
 そして、その姿を撮影したフィルムを持って町に戻ると、日本やフィリピンのマスコミはこの変な若者が持ち帰った思いも寄らない情報に大騒ぎ。さっそく、大規模な捜索計画が組織され、鈴木青年も小野田さんの信頼を得た人物として参加します。
 そして、ジャングルの中で小野田さんを刺激しないように呼びかけながら、元上官だった人物と二人で粘り強く待つこと数日。ついに元日本兵はジャングルから出てきて、上官の読み上げる「命令文」で、戦後三十年に及んだ任務から解放されたのでした。
 ジャングルから出てきた元日本兵は土地の人たちから「英雄」と出迎えられましたが、小野田さんは自分を救出してくれた鈴木青年にこう語ったそうです。
「こんなとこまでよくひとりで来たな。君こそ英雄だ」

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